2017年2月24日金曜日

聲の形 西宮硝子

※ネタバレあり注意
映画か原作を既読の方のみ御覧ください。
ストーリーのコア部分まで触れています。


聲の形という作品は、賞賛する声もあるものの、一方かなり酷評されている面も見受けられます。私の意見は文学史に残る大傑作だという認識です。漫画という媒体で書かれているものの、その中身は紛れもなく一級の文学作品だと思いました。

そんな聲の形が酷評される点について書きたいと思います。



西宮硝子は聖人なのか


最も批判されがちで、かつある一面の妥当性があるように見える批判が「西宮硝子が聖人すぎる」という種の批判でした。自分をいじめていた相手が少し反省したからといって、簡単に許してしまって気持ち悪い…という趣旨のもの。映画評論家の町山なんとかって人すらこんな批評していて、残念でしたね。曰く、「無垢な聖人として障害者=純粋・善といった固定観念で書かれている」…云々。評論を生業とする人間がこの程度なのか、と思います。

確かにそこはわかりづらい点があります。そのあたりは、前回の記事で書いたとおり、ある程度作者の意図したものと思われます。しかし、よくよく読み込むと、西宮のその理由も動機も全て作中に現れているのを理解できます。


類似性その1

読み解く上のヒントが、作中でひたすらリフレインされる石田将也と西宮硝子の類似性が一つのポイントです。

・石田将也
小学生時代に、西宮いじめの積極的先導する役割っだったのは事実です。しかし教師までも含めたクラス全体もまたそのいじめを容認し、全員がその咎の一端を明らかに担うべきものでした。それをいじめが発覚した際、担任教師がその保身からその全ての罪を石田におっ被せてしまいます。そして、石田自身もそれを受け入れてしまいました。さらにその後もかつての親友たちから今度は石田がいじめられるという経緯などを経て、己の罪ではないものまでも、自分を苛み続けるという人間になってしまいます。

・西宮硝子
その生まれながらの障害から、家族の問題、クラスの不和、佐原の不登校、その他ありとあらゆる事を「自分のせいで周囲の人を不幸にしてしまう」と、彼女もまた自分で自分を苛み続けます。それらは作中でひたすらその描写が繰り返されます。



類似性その2


それと同様に、彼ら二人は実は相当な向上心をその内側に湛えた性質も持ちます。

・石田将也
己の罪と真正面から向き合い、独学で手話をマスターし、更にまさに己の命を賭けて西宮への贖罪を果たします。この世の中に一体これ程までに自己の罪と向き合い、それを己の生き様に昇華させる事が出来る人間がいるでしょうか。(もちろん自分自身にも自戒を込めて書きます)

・西宮硝子
聴覚障害を持ち、相当にネガティブな面があるものの、積極的に友達を作ろうとします。筆談ノート(重要アイテム)を介して会話をしクラスへ溶け込もうとし、まさかの合唱コンクールへの参加までします。ある種の相当に強靭な精神と意思が見て取れます。


「友達になろう」


そして、小学生時代、西宮は石田に致命的に傷つけられてしまいます。筆談ノートが石田によって池に投げ捨てられたシーンで、西宮は手話で「友達になろう」と伝えていました。たとえ自分をいじめていた相手であろうとも、ノートで会話を試み、更にそのノートを石田に取り上げられても、なんとか握手や手話でメッセージを伝えようとします。


まさに西宮の向上心の一場面であります。しかしこれは石田のみに対してこの「友達になろう」というメッセージを伝えていたわけではありません。作中は石田視点がメインのためあまり書かれませんが、西宮は他のクラスメイトとも友達を作ろう、向上しよう、と努力しています。

しかし、それらは全て拒絶され、更に石田によってノートを池に投げ捨てられてしまい、それが西宮にとって致命的なものとなり、結弦に「死にたい」と告解したシーンへとつながります。その際重要なのは、一度は池に入ってまでノートを拾い上げますが、西宮はそのまま再度捨ててしまいます。
切っ掛けは石田ではありますが、西宮は自身の意思で、その象徴たる筆談ノートを池にすてたのです。

西宮はひたすら「普通であろう、友達を作ろう」と向上していました。しかしそれらは、全てが誰にも届かずに一旦終わってしまいます。

そして石田もまたその後己の罪を自覚しながら強烈な自己嫌悪を抱き続けます。


筆談ノートの意味


原作2巻の冒頭、その石田が西宮の手話教室を訪れます。そこで作中で最も重要なシーンの一つ、あの石田が
・筆談ノートを持ち
・友達になろう
というメッセージを西宮へ伝えます。

それまで誰にも伝わることがなかった「友達になろう」というメッセージと、それを象徴する「筆談ノート」。これを石田が持って現れた。ここまで把握できれば理解できるのではないでしょうか?

誰にも届かず、筆談ノートと共に池に捨ててしまった西宮の思いそのものの原型、あるいは西宮の魂の形とでも言うべきものを携えて現れた石田。これが西宮にとってどれほど大きな意味があったか。


「一度諦めたけどあなたが拾ってくれたから大事」
そして原作2巻、このセリフです。
川に筆談ノートを落とした際の西宮のセリフとその表情が示すもの。もうこれ以上は説明不要ですよね。

※本題から外れるものの、少し解説しておくと、その大事であるはずの筆談ノートが、その後どういう経緯なのか結弦の手に渡っています。つまりノート自体の物質的価値は、西宮にとってそれほど重要ではなく、ノートと共に石田によってもたらされた概念と象徴とその意味の方が、西宮にとって大事であったのだろうと思われます。


その後


これ以上は蛇足になるので、あまり触れないでおこうと思いますが(是非もう一度作品を読み直してください)、少しだけ追記すると、花火での場面、なぜ西宮が自殺しようとしたのか。

簡単に触れますと、石田が持ってきたものは、「一度は捨てたはずの希望」「その表裏一体となる絶望」ももたらしたためです。



総評


以上、ツラツラと西宮硝子の内面に絞って書きましたが、この作品は本当に素晴らしいと思います。是非深く読み込んで頂きたいと思います。

4 件のコメント:

  1. ここで紹介されたのを切っ掛けに読みましたが、素晴らしい漫画ですね。(名前自体は聞いてましたが、「障害がテーマ」という先入観で食わず嫌い…私のような人は他にもいると思いますが)

    そういえば、今年のアカデミー賞短編映画部門受賞の「合唱」はご存知ですか?直接的な繋がりではないのですが…初等教育の現場で、教育者が生徒を(直接的・間接的な違いはあるにせよ)差別的に取り扱うこと、そしてそれに対して子供たちがどのように反応するか、という点で対照的ではあります。
    (蛇足ではありますが、この映画では歌うことを禁じられた子供が素で歌っているのに対して、歌が上手いという設定の子供が「口パク」しているという皮肉…というか大人の事情があります。これに対してメタな批判は今のところ見かけませんが)

    あと西宮硝子が作中で、小学校時代に合唱に参加した件について色々と考えてまして、答えらしきものは私の中にあるのですが、なにぶん私は後発組ですからまず感想を色々読み漁りたいと思います(少なくともGoogleで1ページ目には出てこなかった)
    あのエピソードも、人によって「きこえているもの」が違うということを示唆してるんですよね。

    返信削除
  2. 聲の形の紹介をしたくて始めたようなブログなので、読んで気に入っていただけたのなら、僕にとっても望外の喜びってやつです。ありがとうございます。合唱という映画は知りませんでした(今年のアカデミー賞がどういう作品かも知りません…)。テーマとして近しいものがあるようですね。機会があったら見てみたいと思います。

    西宮のコンクールの件はどうでしょうね。僕としては、彼女の向上心の現れなんだと解釈しました。あとは、花火が好きだったりするように、音を体で感じられるものが好き、という面もあるようですね。

    何か気づかれましたら、ぜひまたご意見ください。

    返信削除
  3. 返信ありがとうございました。
    聲の形、ファンブックも読みましたが、この作品のキーワードが「ちゃんと見る、ちゃんと聞く」ならば、ほぼ同じ要素が「合唱」でも取り上げられていますね。
    「合唱」については
    https://antenna.jp/articles/3669980
    こちらで公式?の日本語字幕版が公開されています。が、原タイトルは中立的な「合唱」ではなく、「みんな」であることを心に留めて観ていただけるとより楽しめると思います(クライマックスにちょっとした「仕掛け」があります)

    さて、聲の形全般についてですが、読み切り版・リメイク版を読んでみて、「お涙頂戴」と言う批判は至極真っ当なものであると私は感じました(実際私も泣きましたし)。これらのプロトタイプ版は、(都合のいい)許しを請う加害者、それを(あっさりと)受け入れる聖人としての障碍者の感動物語ですよね。完成度は高くとも、カタルシスを得るために消費される「安い」物語と言うこともできる訳で、編集部から高い評価を受けながらも長年雑誌に掲載されなかったり、また読み切り版が読者アンケートで広く支持を集めながらも、すぐに連載という流れにならなかった裏には、「障碍者に対するいじめ」と言った外形的な要素とは別の、出版社としての倫理的な点に関する懸念があったのではないかと思うのです。
    もちろん、作者の意図は、何かしらの「完成した答え」ではなく、あくまでも「問い」を広く提示するものだったのですが、それがどれほど伝わっていただろうか、伝わるように描かれていただろうか、という点では疑問を持っています(当時の反響を知らない上で書いています)
    ただ、こうした批判はもちろんプロトタイプ版にのみ当て嵌まるものです。連載版では、プロトタイプ版のクライマックスである、石田と西宮の再会し、そこで交わされたコミュニケーションが上辺のものに過ぎなかったと言うことを丁寧に描いている訳ですから(ちなみに、一度築き上げた「結末」を壊して、それを超えるものを創り上げる、というプロセスを間接的に目の当たりにできる私たちは幸せだと思います)。それでも、少なくない読者が(別マガ誌上の読み切り版は知らないとしても)リメイク版に目を通していたと考えられるわけですから、リメイク版の「安っぽさ」が連載版の評価に影を落としていることもあり得るのではないかと思うのです。
    まあ映画版単体でも批判があったようですので、全てのケースに当てはまるとは思いませんが…

    コンクールに関しては、リメイク版には「うたえるようになりたい」がありますから、確かに向上心の現れと解釈するのが妥当なのかもしれません。
    が、私は裏に母親との絆を感じました。音の出るおもちゃを与えられた硝子は、音を聞くことが出来なくても、音楽に対する興味を持ち続けていたのだろうと。
    また、言葉を発することを実質的に「禁じられていた」(自分に禁じていた)硝子にとって、堂々と声を出すことのできる、数少ない機会だったということも重要だったんでしょうね。

    返信削除
    返信
    1. 読み切り版に関してはどうでしょう。自分としては、連載が終わってから読んだので、完全に西宮のキャラ像が固定化してからで、そういった感想は抱かななかったですね。読んだタイミングの差でしょうか。

      しかし、確かに読み切りの時点で終わるとそう見える側面もありますね。個人的な解釈では、これから二人はどんなコミュニケーションを重ねていくんだろう、と考えさせるものでした。

      あとは読み切り掲載という手法自体が、1話完結である程度キャッチーに作らなければならないという、週刊連載のサガな側面が強いですから、それを作品の質とからめて批判するのは、ちょっと酷だと思います。やはり本筋としては、本編のみで語るべきではないでしょうか。読み切りの印象で批判してる人には「ちゃんと読め」と言うしかないですよね。

      映画版は時間的制約上、色々削られてるのが惜しいし、1度見ただけじゃ絶対理解しきれないでしょうし、そっちも何とも言えない所はありますね。なので誰かに紹介するときは、原作の漫画を勧めていました。


      西宮の向上心には、母親への期待に答えたいというような側面があっただろうな、ってのが自分の解釈でした。そういう側面での絆という解釈もありますね。

      削除