2019年8月21日水曜日

犠牲の価値

個々人の発言にすぎないのでいちいち引用して批判するのは避けますが、ネットを眺めていると、第二次大戦中の日本人の犠牲が「無駄死に」か否か、うんぬんという議論をしばしば目にしました。

僕は大日本帝国悪玉論には断じて加担しないので、特攻隊の方々の犠牲を「無駄死に」だとか、あるいは「特攻を美化するな」と、蔑む人間とは一切立場を異にします。比喩ではなく文字通りに「命がけ」で、後世のため戦った方々を特別尊敬する事の何が「美化」なのか、僕にはさっぱり理解できない。今更この類の愚かな主張など、馬鹿馬鹿しくて批判する事すら価値を見いだせないので、無視します。

少しマシな別の意見では、「無駄か否かは命をかけた当人の意思であって、我々が決めてはいけない」という趣旨の意見もありました。一見なんだか良いことを言ってるようなきがしますが、僕としては違和感が拭えません。

なんと言えばいいのだろう。どうにも「戦後的」な匂いのする、個人の意思を崇高な最上の価値とした捉え方、とでも言うんだろうか。あるいはそうして命を捧げた当人の意思を持ち出すことによって、我々が負うべき責任を回避したいのではないかと感じてしまう。

ありえない仮定ではあるものの、百万歩譲って、かつての戦争のすべてが過ちでしかなかったとして。ではその過ちと犠牲の全てがただただ無駄になるのかといえば、決してそうはならない。失敗は成功の元といわれるように、その過失を糧として我々が活かせる事さえできれば、そのどんな犠牲も一切無駄になることはない。

あるいは逆に、先人のせっかく遺してくれたどんな成功も、我々が活かす事ができず、ただ無為にしてしまうだけであったなら、その時本当にその犠牲はすべて無駄となってしまう。

当たり前すぎる話です。先人の過失も成功も、それに本質的な価値をもたらすのは、受け継ぐ我々であり、それを「当人の意思」なんて言ってのけるのは、先人に対する敬意が根本からスッポ抜け、それを受け継ぐ者としての責任を放棄した、いかにも「戦後的」な幼稚な議論としか、僕には思えない。

受け継ぐ価値は、今後の我々の「ありよう」がその真価を決定づける。それを「当人の意思」と言ってしまっては、我々が先人から連綿と続く重みを、ミクロなものに矮小化し、お為ごかしに、その重責から目をそらしているのではないか、と見えてしまう。

……強く自戒を込めて書き留めておこうと思う。