2019年10月22日火曜日

デモンエクスマキナの対人について雑感



戦争映画の名作フルメタル・ジャケットのハートマン軍曹が素晴らしい言葉を残してくれている。

「カマを掘るだけ掘って、相手のマスかき手伝う外交儀礼もないやつ、きっちり見張るぞ! 」

我々は、特にネットゲームでは多くの場合、所詮「ごっこ遊び」をしているに過ぎない。このごっこ遊びは絶対に一人ではできない。相手も自分も、同じ土俵で同じ空気を共有したとき、この無邪気でちょっとガキっぽい遊びが本当に楽しいものになる。

その中で自分だけは絶対にやられない無敵バリアを貼るような真似をしていれば嫌われて当然だろう。ただただ勝ちさえすればいいという価値にガチプレイというエクスキューズをくっつけて、ごっこ遊びをするような相手と遊びたくはない。

ごっこ遊びにはごっこ遊びのマナーがある。これは決して明文化される事はない。暗黙の了解こそが、ごっこ遊びをごっこ遊びたらしめ、そこに初めて楽しさが生まれる。



もちろん、MOBAやカードゲームのような、ルールががっちり決まってるPvPゲームでなら、そのルール内であらゆる手段を用いて勝つ、というのはわかる。

ゲーム自体がそのために出来てるし、それ自体がそのゲームの競技性でもあるからだ(その出来の良し悪しは保留して)


現状、そういったPvPを主眼としたゲームは数え切れないほどある。

FPSやTPSなら
CS:GO、BF、CoD、R6S、Overwatch、PUBG、Fortnite、Apex…

MOBAなら
LoL、Dota、HotS

カードゲーなら
Hearthstone、Shadowverse…

PvPに注力してるMMOなら
WoW、GW2、FF14も?

色々あげればきりがない。

この例示した中には「ごっこ遊び」要素の強い側面を持つゲームもあるので、個人的にはこの中から除外したい感覚を持つものもある。まぁでもそれは今は保留しておこう。

どんなゲームでもいいんだけど、とにかくルール内で全力を出し切るタイプの対人がしたいなら、現状選択肢はもはや過剰に過ぎるほどある。



では、そんな中デモンエクスマキナはどうか。

このゲームは明らかにロボットを操作する楽しさが主体だ。ACにしろ(ACV系を除いて? 未プレイのため不明)、それだけは絶対間違いない。特に現状は対人のルールがガバガバだし各パーツのバランスもぶっ壊れたままであることも特記せねばなるまい。

このゲームにあるのは、本来はある種のロールプレイだ。つまりロボのパイロットというロール自体を楽しむという、勝ち負けだけではない、それ以外の価値観が大きく付与されている。(※ただし、もちろんそれが勝ち負けの重要性を否定するものではない事も付記しておこう)

それなのに現状このゲームで、ただただ勝敗のみに拘泥し、このそびえ立つクソみたいな仕様を全力で用いて、対人戦において勝利を追い求める事が批判されるのは、本来は当然だと僕は思う。

しかし現状の空気を見ている限り、勝ちさえすればそれでいいとする人達が大勢のようだ。あるいはそうではない「ごっこ遊び」をわきまえた人達ほど去っていった結果だろう。

そんなゲームになってほしくはなかったが、もう駄目だろうね。このままでは恐らく僕は二度とデモンエクスマキナをプレイする事はない。

2019年8月21日水曜日

犠牲の価値

個々人の発言にすぎないのでいちいち引用して批判するのは避けますが、ネットを眺めていると、第二次大戦中の日本人の犠牲が「無駄死に」か否か、うんぬんという議論をしばしば目にしました。

僕は大日本帝国悪玉論には断じて加担しないので、特攻隊の方々の犠牲を「無駄死に」だとか、あるいは「特攻を美化するな」と、蔑む人間とは一切立場を異にします。比喩ではなく文字通りに「命がけ」で、後世のため戦った方々を特別尊敬する事の何が「美化」なのか、僕にはさっぱり理解できない。今更この類の愚かな主張など、馬鹿馬鹿しくて批判する事すら価値を見いだせないので、無視します。

少しマシな別の意見では、「無駄か否かは命をかけた当人の意思であって、我々が決めてはいけない」という趣旨の意見もありました。一見なんだか良いことを言ってるようなきがしますが、僕としては違和感が拭えません。

なんと言えばいいのだろう。どうにも「戦後的」な匂いのする、個人の意思を崇高な最上の価値とした捉え方、とでも言うんだろうか。あるいはそうして命を捧げた当人の意思を持ち出すことによって、我々が負うべき責任を回避したいのではないかと感じてしまう。

ありえない仮定ではあるものの、百万歩譲って、かつての戦争のすべてが過ちでしかなかったとして。ではその過ちと犠牲の全てがただただ無駄になるのかといえば、決してそうはならない。失敗は成功の元といわれるように、その過失を糧として我々が活かせる事さえできれば、そのどんな犠牲も一切無駄になることはない。

あるいは逆に、先人のせっかく遺してくれたどんな成功も、我々が活かす事ができず、ただ無為にしてしまうだけであったなら、その時本当にその犠牲はすべて無駄となってしまう。

当たり前すぎる話です。先人の過失も成功も、それに本質的な価値をもたらすのは、受け継ぐ我々であり、それを「当人の意思」なんて言ってのけるのは、先人に対する敬意が根本からスッポ抜け、それを受け継ぐ者としての責任を放棄した、いかにも「戦後的」な幼稚な議論としか、僕には思えない。

受け継ぐ価値は、今後の我々の「ありよう」がその真価を決定づける。それを「当人の意思」と言ってしまっては、我々が先人から連綿と続く重みを、ミクロなものに矮小化し、お為ごかしに、その重責から目をそらしているのではないか、と見えてしまう。

……強く自戒を込めて書き留めておこうと思う。

2019年7月8日月曜日

FF14 5.0ストーリー雑感の雑記


備忘録がわり


FF14の5.0のストーリー、個人的には不満だった。不完全な人間が不完全なまま、ただ生存競争に勝ち抜いただけの事に思える。人間の不完全さを描くのは良いと思うけど、それに「結論」を出してはイカン。あの問に正解はないのに、あれで大団円としてしまってはいけない。

不完全さを問うたのなら不完全なオチにしないと。人間がそこから脱却できたわけではないんだから。読後感の悪い純文学のように。現象的には、ただ暴力的に古代人の生き残りを排除しただけだからなぁ。彼らが今までやってた事と大して変わらん。もちろん自衛という名目はあるけど。でもアシエン側にしたってカルネアデスの板ってやつで、彼らは彼らの生存がかかってる。

神の使徒であったはずの人間が、原罪を抱えてエデンから追放されるというのは古典的なテーマなんだから、それを取り上げる以上、古典的な結論は避けてほしかった。

ダクソシリーズなんかも似たようなシナリオだけど、あっちはきっちり人間の不完全さをそのまま俎上に乗せて、世界を終わらせたからなぁ。まぁゲーム的な制約の多いMMOを同列には語ってはいけないけど。薪の王がエメトセルクで、亡者が現人類ってとこか。そう解釈すりゃ色々見えるかしら。火継ぎエンドがエメトセルクの目的、火継ぎの終わりがヒカセン、火の簒奪者がヒカセンの前世ってとこかな。そういう意味でエメトセルクが、現人類の命をハエぐらいにしか尊重しないのも当然なわけだ。ダクソで亡者達の命を誰も尊重しないように。

ダークソウル3の火継ぎの終わりは、文明の終わりというのを描いた稀有な作品で、本当に素晴らしかったからなぁ。ただシナリオとして好きなのは火継ぎエンドだけど。たとえどれ程弱く衰えても、それが可能なかぎり守り伝えゆく、というのが素敵。そういう意味でエメトセルクに共感する。

もちろん前提として、人間も生き物なんだから生存競争という原理原則は全く否定しないし、そこから逃れられないんだけどね。でも、災厄を防ぐために半数の人間が自ら命を差し出したような貢献できんのか、というエメトセルクの指摘にたいして、暁もヒカセンも答えを出せてないわな。まぁ不可能なんだが。だからこそ、エメトセルクを排除しただけがオチというのは受け入れがたいね。

エメトセルクが背負ってた同胞たちの魂(?)が、今回失われたという事も見なかった事になってるしなぁ。善良たる英雄のヒカセンがアーモロート人の魂は無視するのは、アンバランスと言わざるをえんね。彼らはすでに滅びの運命だったというなら、水晶公が時間遡及までして介入した事も運命の否定なわけで。自分たちの滅びの運命は否定して、アーモロート人には運命を受け入れろというのはダブスタになる。

もちろんだからといって、受け入れて死ね、とは言わない。エメトセルクと戦うのも自衛で、これもカルネアデスの板なわけだ。ただ、結局ここで議論が停滞しているだけで、その次を描けないのなら、拙速な「答え」で物語を完結させちゃいけないね。