2017年2月26日日曜日

聲の形 石田将也

※ネタバレあり注意
映画か原作を既読の方のみ御覧ください。
ストーリーのコア部分まで触れています。


次はもう一人の主人公、石田将也についてです。彼についての世間の評判も、なかなか酷評されている面があるようでした。概ねが、あれだけ酷いいじめをしていたのに簡単に許されてしまうのはおかしい、というもののようです。では、本当に簡単に許しを得られたのか、書いていきたいと思います。




罪と罰


西宮側からの視点で石田をどう見ていたか、という解釈については前回の記事で触れました。今回は石田側からの視点です。普通に原作を読んでさえいれば、割りとすんなり理解できる話ではあろうかと思います。

前回に少し追記すると、西宮は石田の小学校へ転校する前から常にいじめられ続けており、西宮にとって石田は「自分をいじめた沢山のうちの一人」でしかなかったようです。ただしその記憶としては鮮烈に残ったようですが。

石田視点の作中では西宮視点が見えないため、そのあたりが描かれません。手話教室で石田と再開するまでの西宮にとっての石田はその強烈な人生のうちの一コマにしかすぎなかった、という事です。そのあたりも石田をあっさりと許してしまったと見えてしまうのに繋がるのだと思います。




「罰が足りない」



では西宮ではなく、一体誰が石田に罰を与えたのか。単純な話で、「石田自身」「その身の因果」です。


第38話
自虐的かつ自罰的に、自らの罪と罰を受け入れる



第6話
「ああ…だめだ…
まだ…足りてない
足りてない足りてない足りてない
罰が…死ぬための資格が…」

「死ぬための資格」というのが若干分かりづらいかもしれません。このあとに自殺する事を周到に計画だててた石田にとって、罰を受けずにただ死ぬだけで己の罪を帳消しにして逝く、という自分を許せなかったと思います。




「インガオーホー」


第38話
もう一つの作中で頻繁に繰り返されているのが、「因果応報」です。これは作中でかなり明確に、キャラクター達の逃れられない運命として描かれています。第5巻、橋の上での騒動は、植野が「インガオーホーなんてクソくらえ!」とその因果に戦いを挑み石田もそれに乗るものの、その因果と運命には逆らえなかった為にあの致命的な結果を招き、そして石田はさらに罪を重ねてしまいます。



第39話

その己を罰するために、石田は真柴に自らを殴るように言います。「他人様」である真柴から罰を受ける事を望んだのです。この罪と罰もまた作中でひたすら繰り返されます。

ちなみに、この「罰を与える救済」というのは、オウム真理教の有名な「ポア」思想です。本来はチベット密教の概念らしいですが、それを都合よく解釈し「罪を重ねる前に殺すことで、その魂を救済する」などという悍ましいものへと変質させました。「罰を与える救済」は本来神仏が行えばこそ、救済にもなりうるものでしょう。しかし、人間が人間にこれを行うのは非常に悍ましく恐ろしい思想です。
(余談ですが、さりとて私は死刑反対派ではないです)




救済




第13話

そしてこのセリフ。たまらなく大好きなシーンです。かなり大胆な発言なのですが、その自覚すら無いほど彼は本心を叫びます。最終的にはこのセリフそのままに石田は己の命を賭けて罪と向き合い、己の命を賭けて償います。石田は自殺しようとした西宮を助け、その対価として自らの命を運命へと差し出しました。そこまでしてようやくある程度の救済を、石田は得られます。

チョロいヒロインが、いじめっ子をちょっとした贖罪で許してしまう、そんな都合の良いラブストーリー、なんて甘い物語では決してありません。




総評


石田は決して、安易な救済などされていません。正に命を賭して罪と向き合い、それを投げ捨てた後、最後にいくらかの救いを得ることができました。いじめの罪と罰という側面だけで聲の形を語るなら、「いじめはその生命をもって償えば、赦される……かもしれない」です。

決して、お涙頂戴のご都合主義物語などではなく、強烈な罪と罰と、その為の因果応報が描かれます。その苦しみの中で失敗しながらも足掻いていく、そんな石田が僕には愛おしくて、同時に眩しくてたまりません。

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