2017年2月20日月曜日

映画 聲の形

※ネタバレあり注意


2016年9月に公開された映画 聲の形という作品があります。原作が本当に素晴らしくて、そちらも書きたいと思いますが、今回は映画のほう、公開時に問題となった事柄について触れたいと思います。

聴覚障害を作中の要素に取り扱った作品ですが(メインテーマではありません。あくまで舞台装置の一つ)、その公開時に字幕版の上映の有無や頻度について、批判される事がありました。



聴覚障害


曰く、聴覚障害者がテーマなのに肝心の聴覚障害者向けへの配慮のない上映しかない、という類のもの。字幕上映が封切りと同日ではない事だったり、上映日や上映館が一部に限られる事だったりする事に対する批判のようです。

そういった

「障害がテーマ(というのは間違いなのですが)の映画なのに、障害者への配慮のない作品だ。こんなもの見る価値などない。」

という人たちと、反対側には

「障害者だからって何でもかんでも特別扱いするのはおかしい。字幕あり上映が無いわけではないのに、特別な配慮ばかり求める事こそ逆差別だ。」


という人たちとで、彼らがTwitter等で醜くも罵り合っているというのが概ねの構図でした。この作品をご覧になった方なら、「はて、この構図どこかで見たなぁ」なんて気づかれるかもしれません。




文学的メタ構造


西宮は障害が故に周囲とうまく馴染めず、また親も含めた周囲の大人たちの「無配慮な配慮」により更に周囲との位相の差異がより拡大し、例えば小学生時代の西宮と石田であるとか、西宮と植野の様に、互いが互いの不理解によりいじめがおきました。ただしそういった相互の不理解(ディスコミュニケーション)は、障害のある西宮の周囲のみならず、その他の家族友人教師生徒、あらゆる登場人物間でも徹底的に描かれます。

そしてそれは作中内の表現手法としても表されています。例外はありますが、ほぼ作中で使われた手話表現には字幕がつきません。会話の流れで推測するしかありません。(もちろん手話がわからなくてもシナリオが破綻しない程度に理解できるようにはなっています)


つまり、
・聴覚障害者から健常者への断絶である手話が通じない問題(作中)

・健常者から聴覚障害者への断絶である映画字幕の有無という問題(現実)

というフィクションと現実のスパイラル。作中のディスコミュニケーションが現実に形をなし、そして罵り合うという、聲の形のテーマが現実に降りてくる、文学的メタ構造がここに完成



「劇とは観客自体もその演出の一部にすぎない」

(荒巻大輔/攻殻機動隊SAC)


これは原作の漫画からそうですが、明らかに作者が意図して手話にキャプションをつけていなかったと思われます。映画での字幕上映が限定的であった事にどこまで原作者の意向が反映されたものなのかはわかりませんが、起きた事象として、まさに作者の表現が現実に降りてきたという点において、さしたる問題では無いかと思います。

こうして、作者の描き出したフィクションであったはずのものが現実へと降臨し、我々へまざまざと見せつけられます。さらに加えて殆どの人がその意味を理解できていないという現状、個人的感想を述べるなら絶望的なものを感じます。

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