2017年4月29日土曜日

右派 ≠ 保守

http://toyokeizai.net/articles/-/169131

面白い記事だった。西部先生はホントに、そこらの批評家と次元が違う。


保守という日本語に、メンテナンスって意味が含まれている事を理解すべきだとおもう。決して "右=保守" なわけではない。馬鹿で国益を毀損する左翼を嫌って反左翼なのは別にいいけど、だからって「右が正しいんだ」なんて思い込むと、本当に足元すくわれるよ。いつも思うけど、右端と左端って繋がってるからね。


記事にかかれているように、"保守" を、ただただ現状維持や、懐古主義、復古主義、あるいは原理主義のように解釈するのは本当に間違ってる。


村上春樹のノルウェイの森の永沢先輩が言うような、没後30年経った作家の作品しか読まない、という様に、歴史のフィルタリングを経た人間の良識の集合体のようなものであって、自身もその文脈の一部であると自認し、それに準拠しながら同時に時代に合わせて "メンテナンス" していく有様のことなんだ。


幸いにも僕らの「伝統」は原典を持たない、血に染み込んだ概念的なものであるので、すごくフレキシブルな保守性を持っていると思う。だからこそ、儒教のいいところだけ取り入れたり、外来の宗教であるはずの仏教を受け入れたり、近代においては西欧化すら取り入れる事ができた。

(※もちろん、近現代でそれが行き過ぎ、現在のあれやこれやの不具合が出ているわけで、そこんところが慎重なさじ加減というもの。ただし当時はまさに国家の存亡をかけた国難であったので、その極端な西欧化はやむを得なかったと思います。)


で、今現在の僕らが保守を語るとき、その受け継いできた文化伝統歴史それ自体の重みとそのメンテナンス、という意味に気づければ、維新だとか反韓反中だとかの、程度の低いセンセーショナルなアジテーションに乗せられる事はなくなるのではないかな。

無くなるといいなぁ…。

2017年4月7日金曜日

筒井康隆 その1

http://shokenro.jp/00001452
この記事の筒井康隆のツイッターと日記が炎上してるそうです。炎上騒動を批判してきた僕ですが、これは100%筒井康隆を支持します。僕自身が氏の作品をほぼ全て読んでいるほどのファンである事は付記しますが、しかしそれを除外してもやはりこの人は別格であると思うので、書いていきたいと思います。




◎炎上芸


語弊があるのを承知の上で言いますが、そもそもこの筒井康隆という人はある種の「炎上芸元祖」とでも言うべき作風の人です。ただし、唯野じゃなくて只のバカッター騒動とは次元が違います。

このクソッタレな世の中には「問題山積でバルカン半島並な火薬庫のような事象」が存在します。危なすぎて誰にも触れられない、アンタッチャブルな社会事情ってやつです。そういうクソッタレなモノの中に、自分自身に火を付けながら突っ込み、その中心で踊り狂って焼き尽くし、最後にその焼け跡から大爆笑して出て来る、というような事を繰り返してきた人です。

有名なのは無人警察という作品にまつわる一連の断筆宣言騒動です。興味ある方はご自分で調べてください。少なくともこの日本語圏で何かしらの言論をしようとする人間であるなら、この僕らの「言論の自由」に関して、筒井康隆には足を向けて寝られないはずです。

今この少なくとも日本語圏での文壇やメディアの言論空間に、いくらかの良心が残っているとしたら、それは筒井康隆が戦った戦果の残滓と言えるものです。今でこそ信じられないでしょうが、何十年か前までの日本言論界でのいわゆる「左寄り」な空気というものは、とんでもないものでした。その中で孤軍奮闘と言っていい程最前線で戦い続けた人です。もうその戦果だけでもって筒井康隆のあらゆる言論の自由は保障すべきであると思います。




◎作風


その筒井康隆の作風の一つとしてよく上げられるのが、メタフィクションです。フィクションでありながら、現実の事柄などを織り交ぜて描き、虚構と現実をクロスオーバーさせる手法です。筒井康隆本人の言葉で言うなら、「現実を異化する」というものだそうです。

例えば作者が批判したい何かしらの事象があったとして、筒井康隆が用いた手法は、その事象の問題点を、例えばパロディ的に極端に強調したり、あるいは敢えてその問題の正反対を描き逆にその異常性を浮かび上がらせる、という表現をしばしば用います。なおかつその際に現実とのクロスオーバーを行い、読み手側にただのフィクションとしてではなく、現実を「異化」したものとして突き付け、理解させます。それは「読み手をその問題の批評家」へと変化を促します。

筒井作品の本質はここにあると感じます。そのまま批判する作品では、「なるほど、そういう意見もあるのか」なんて読者は思うのみで終わるでしょう。そこで敢えて現実とクロスオーバーさせた虚構を描く事で、そのフィクションはただのフィクションではなく、我々自身であると気づかせる事ができれば、その意思は批評を越えて、読み手に変化をもたらすでしょう。

これはある意味、あらゆる "本物" の創作物がそういった側面を持つものです。筒井康隆もその本物の一人であると僕は確信しています。




◎件の日記


小学生の頃から筒井ファンを自認してきた自分のような人間にとっては、件の発言は率直に言うと「また筒井さん無茶なこと言ってるよ」なんて感じでした。ツイッターでリアルタイムで見てましたが、そんな感想です。

では、そんな作風の筒井康隆が描いたこの短文の意味を一ファンとして、僕の解釈を書きたいと思います。この短文には幾重にも批判対象がレイヤーとして重なっている様に思います。それぞれ解釈を書きたいと思います。


・1層目
まずは韓国に対して。これは文面通りのクソッタレな売春婦像を乱立するあの国を批判するものです。あえて説明するまでもないでしょう。従軍慰安婦などというデマゴギーを批判するものです。

・2層目
それらのこんな酷い大嘘がまかり通る世相に対して。国内外を問わず、未だに我が国を「悪辣非道の人外外道国家」としてその手足を封じ込めておきたい世相が存在します。そんなクソッタレな世情を批判したものだと感じます。

・3層目
更にそれを未だに拭い去ることのできない、情けない半端者国家日本を批判したものだと感じます。肝心なことは、我が国が「人さらいレイプ国家である」という世界的な価値判断を決定的なものにしたのは、我が国自身であるという事です。すなわち、現職総理が交わした、いわゆる「日韓合意」です。この合意に関して肯定的に捉えてる人も多いでしょうが、これは絶対にやってはならない、最低最悪の外交結果だったと思います。これについては今回の本筋とは逸れますのでまた別の機会に書きたいと思いますが、そういう意見もある、と理解ください。

・4層目
そして、そこに含まれる我が国の大衆への批判として肝心なこの4層目。今この炎上案件では、少なくとも日本国内では筒井康隆支持な意見が趨勢だと思います。概ね「韓国に対してよく言ってくれた!」(意見A)なんて感じだと思います。あるいは「なんて下品なこと言ってるんだ。これじゃ立場悪くなるではないか」(意見B)、という2種類でしょうか。4層目にはこれらの意見に対して、予め含意された批判が含まれていると感じます。

意見Bには、実は少しだけ同意するものがあります。確かにこんな下品な発言しては、間違いなく世界一モラルが高く真っ当な軍隊であったはずの旧日本帝国軍の評価を貶めてしまうではないか、と。しかし我々にはその声を上げる権利は無いでしょう。その辺りは意見Aと合わせて、評します。

意見Aに関して、私の予断で決めつけますが、今回の筒井康隆案件を完全に肯定的に捉える人の意見は恐らく「日韓合意」に対して肯定的な意見を持つ人でしょう。ざっと世の中眺めてみましたが、僕自身の感想としてそう見ます。根拠はありません。

つまり、2層目と3層目で批判されている「外道国家」としての国際的評価を「不可逆なもの」として固定させてしまった現在の政治情勢に対して肯定的な意見を持ちながら、売春婦像を建てる韓国のみを批判する世論を切ったものと感じます。

言い換えると、意見A・B両方に対して筒井康隆が含意した批判は、今現在の我々自身が、自分たちが批判するクソッタレな評価を作り出した現状に全く気付いていないこの世論に対する皮肉だと解釈します。

僕らの社会そのものが反映されている我が国の政治とこの世相が、慰安婦問題というクソッタレな大嘘を未だに拭うことが出来ない、というこの我が国の現状自体への皮肉ではないのか、と解釈します。



これを雪ぐことが出来ない我々は、この筒井康隆の皮肉に否定も肯定も出来はせず、ただ項垂れるのみでは、と思います。

ついでに言うと、こんな案件に、こんな真面目くさった批評を書く僕自身が、筒井康隆的メタフィクションの一部へ還元されてしまうものでしかありませんね。我々は「異化」されています。