2018年3月27日火曜日

論功行賞人事とトカゲの尻尾

https://www.asahi.com/articles/ASL3T7FMXL3TUEHF00B.html
「すべて(財務省)理財局で完結させ、幕引きを図ろうとしている意図を感じた。自らトカゲのしっぽになろうとしているのではないか。佐川さん、そこまで背負い込むことないやろ」と語った。

こんな感じで、佐川氏が官邸の罪を自ら被ろうとしてるんだ、という批判がなされているけども、物凄く違和感がある。

https://www.asahi.com/articles/ASK744SLHK74UTIL01D.html

去年2017年7月4日時点の報道で、佐川氏が局長に栄転したのは、
「事実に背を向けてでも、官邸の意向に従っていれば出世できるというあしき前例になる」と、起用した政府の姿勢を疑問視する。

と、論功行賞人事だって批判してたのに、今度はトカゲの尻尾切りだって批判するのはおかしくない? 論功行賞に値する人物だったのにトカゲのしっぽとして斬り捨てたっていうの?

佐川氏からの視点に立っても、出世したくて官邸を擁護する嘘をついたのだとしたら、そのために自身の人生が大きく狂わされて辞職する羽目になり、あまつさえ証人喚問に呼ばれたり刑事事件の訴追される対象になるなんて事になってまで「総理や財務大臣の関与や指示はありません」って言明するのはおかしくない?

もう忖度して嘘を塗り重ねる次元過ぎてるよね。財務省も佐川氏個人も、もう総理の意向を忖度しても得られる利益はないのに、一体何のために嘘を塗り重ねていると主張するのか。野党の意見がさっぱりわからない。

出世したくて嘘をついてるんだ、って批判してたんでしょ? でももうその人は人生破滅しかかってるんだけど、なんでまだ嘘つき続けてるって言えるの? その根拠は? そこまで言うなら、疑惑を持つ側がその論拠を示さないとなぁ。

もう野党の主張には全く正当性が感じられない。

2018年3月18日日曜日

今更ながら真珠湾でのスピーチ


2016年の年末に安倍総理は真珠湾を訪れ、スピーチを行いました。


一般的には戦勝国と敗戦国の融和として、大きく評価されています。僕の考えとしては、真珠湾訪問そのものは外交的大失態だと考えます。その辺り、いろいろ思う事があるので書き残しておきたいと思います。

前提として僕は安倍政権とその実行している政策は支持できる事がほとんどない、という意見であることだけは特記しておきます。その上で多分今まで誰も指摘していないであろう解釈を書きたいと思います。

今回はその際の安倍総理のスピーチについて。訪問自体は評価しないものの、そのスピーチは意外に面白いところがあるのでは?と思います。

その半年前の5月にオバマ大統領は広島を訪問しました。被爆者と抱擁し、「歴史的な和解」と言われています。原爆という民間人を大量虐殺した明らかに戦争犯罪を軽々と許してしまうのは、僕個人はとても認められないのですが…。まぁその辺りも改めて別の記事で。


スピーチ全文はこちら↓

話題になったのがこの一文
The brave respect the brave.
勇者は、勇者を敬う。
アンブローズ・ビアスの、詩(うた)は言います。
戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。

アンブローズ・ビアスは有名な「悪魔の辞典」を書いた作家です。その作家の残した詩の一節からの引用です。
詩の全文はこちら↓

僕も特別英語も米文学も得意でも詳しくもないし、現代英語と若干違う100年前の文章だし、聖書の知識がないと分からないし…。学のない自分には非常に難しくて、なにか致命的勘違いしてそうなのですが、一生懸命読み解いてみたいと思います。実は意外に安倍総理、なかなかにいい意味で曲者な所があるんじゃないかと考えました。全文訳は僕の力量では無理ですのでご容赦を。理解できた所だけ書きます。

話題になった当時にいろいろ調べていたのですが、この詩は南北戦争の犠牲者についての詩で、南軍の軍人の墓を追悼のため飾ろうとした事を北軍士官のE.S. SALOMONという人物が抗議した、という事を批判する詩です。

全体を通して書かれているのは、故郷のために戦った兵士達を称え、勝者である北軍の「勝てば官軍」な傲慢さを痛烈に批判しています。その中で日米関係に重要な所(と僕がなんとか理解できた所)を訳してみます。



The brave respect the brave. The brave
  Respect the dead; but you -- you draw
  That ancient blade, the ass's jaw,
And shake it o'er a hero's grave.

勇者は勇者に敬意を払う。
勇者は死者に敬意を払う。しかし君は…
ロバの顎、その古の剣を引き抜き、
英雄の墓の上で振るうというのか。


What if the dead whom still you hate
  Were wrong? Are you so surely right?
  We know the issues of the fight --
The sword is but an advocate.

君が死者を未だに憎悪しているなら
死者の何が間違っていたというのか?
君は本当に正しいのか?
我々は戦争の問題を知っており…剣はただ主張する。


The broken light, the shadows wide --
  Behold the battle-field displayed!
  God save the vanquished from the blade,
The victor from the victor's pride.

破れた光、広がる影…この広がる戦場を見よ!
神は敗者を刃から救い、勝者をその傲慢から救う。


If, Salomon, the blessed dew
  That falls upon the Blue and Gray
  Is powerless to wash away
The sin of differing from you,

サロモンよ、青と灰に降り注ぐ祝福された霧が
君とは違う罪を洗い流すには力不足だとしたら


Remember how the flood of years
  Has rolled across the erring slain;
  Remember, too, the cleansing rain
Of widows' and of orphans' tears.

忘れるな、幾年もの洪水が誤った犠牲者をいかに押し流したかを
忘れるな、未亡人と孤児達の浄化する涙の雨を


The dead are dead -- let that atone:
  And though with equal hand we strew
  The blooms on saint and sinner too,
Yet God will know to choose his own.

死者は死によって、その罪を償う事を許さる
しかし我々は聖者にも罪人にも等しく花を咲かせたが、
神は彼自身を選ぶ事を知っている。


The wretch, whate'er his life and lot,
  Who does not love the harmless dead
  With all his heart and all his head --
May God forgive him, I shall not.

恥知らずよ、その人生と運命がいかにあろうとも、
その全ての感情と理性をもって
罪のない死者を愛さないのなら…
たとえ神が許そうとも、私は許さないだろう


"Draw near, ye generous and brave --
  Kneel round this monument and weep
  For one who tried in vain to keep
A flower from a soldier's grave."

"汝寛大で勇敢なものよ、この碑に寄り跪き涙せよ
兵士の墓に花を手向け続ける事を
無為にしようとしたものの為に"


訳には正直全然自信ありません。本当に英語得意ではないので、辞書ひきながら考えましたが、大筋では間違っていないはず。しかし引用しなかった部分にはどう解釈したらいいのか分からないセンテンスも多いです。例えばthe ass's jawはロバの顎だそうで意味不明だったのですが、聖書の一節で、神の祝福を受けた人が振るうとロバの顎すら剣になり敵を薙ぎ払った、みたいな話があるそうです。英語圏の教養が必要なんでしょうね。(米文学得意な方、間違っていたら指摘いただければ、あるいは是非全文訳していただければ、とてもありがたいです)

僕も通り一遍しか知りませんが、さらに前提として、アメリカの南北戦争について知識が必要です。勝者はご存知リンカーンが率いる北軍で奴隷解放をうたい、南軍は奴隷制の維持を主張して内戦となりました。

一見何となく北軍のほうが正当性のある主張のように思えますが、どうやらそうとも限らないそうです。別に奴隷の人権を尊重して奴隷解放を叫んだというよりは、工業化が進んでいた北部にとっては、資産として非流動的な「奴隷」ではなく、流動性のある「労働者」が人手として必要だったのが背景にある、と言われているそうです。さらに付け加えるなら、国内においてはそのような美辞麗句で奴隷解放をうたいながら、その後の歴史的経緯では、帝国主義でもって他国を軍事力で隷属させ、国単位の「奴隷」を生み出していたというアメリカの欺瞞も指摘せねばなりません。勿論言うまでもなく、奴隷解放後も続く酷い人種差別も。

では、この詩を引用した安倍総理が何故したたかで、意外に曲者なのではないかと思わせるのか。ビアスの主張で重要なのは2点、敵味方問わず故郷の為に戦った死者への崇敬の念を持たない事への批判、そして勝者としての傲慢な自己正当化への批判です。

ビアスは北軍兵士の傲慢さを批判し、戦没した南軍兵士の勇気を称えています。これを敗戦国である日本の総理が第二次大戦の戦勝国であるアメリカでスピーチするという事。つまり、敗者である日本(南軍)が勝者であるアメリカ(北軍)の傲慢さを、ビアスの詩を引用することで非難する意味が込められていると解釈可能ではないでしょうか。

「原罪」なんて言葉があるように、人は他者を消費してしか生きられない存在です。僕が明日を生きるためには何者かの「生きる」という正義を消耗することで、ようやく今日を食いつなぐ事がようやくできます。戦争もその最たるもので、敗者の正義を消費することで勝者が生き残る事ができる。

でも! だからといって! 敗者である僕たちがその現状を甘んじて受け入れ、勝者のケツを舐めるような行為を延々何十年も繰り返さなければいけない道理はない。

死者の墓に神の威光を掲げた剣を振るうという勝者の傲慢を批判し、君は本当に正しいのか?と問う。そんな詩を、敗戦国が戦勝国へ突き付けたわけです。表向きは戦没者同士の慰霊と友好を演出しながら、同時に勝者の傲慢(the victor's pride)を批判する、という相当練り込められたスピーチではないか、と推測します。

2018年2月16日金曜日

攻勢と痛い目

三浦瑠麗の件はどーなんだろう…。

一昔前、オウムがまだテロ集団とバレる前、上祐の詭弁にのせられてオウムを擁護する"知識人"達でメディアは溢れてたよね。でも結局はテロ集団で、アサルトライフル密造してたり、サリン撒いたりした。

ある程度予断と見込みで犯罪に対して「攻勢」に対処してしまうほうが被害は抑えられる。勿論そこで証拠もなく人種差別やらなんやらで弾圧したりするのは問題だけど。

専守防衛論と同じで、やられてからしか自衛権の発動ができないのじゃ、致命的な被害を受けてしまう可能性が高い。

これを差別問題と突き合わせてどう解決するのか、僕には答えはわからない。

まぁ現実的な未来として見えるのは、国家転覆を狙ったテロを実行したオウムに破防法適用されなかったし、3.11の災害があっても防災インフラの整備は進まないし、敵国は既に核兵器をこちらに向けてるのに核武装どころか防衛費増額すらされない。じゃぁ北に対しては…。

それぐらい呑気で間抜けな国風なんだ。今回にしても町山なんとかも、デイリーメールは信用に足るのか否かとか、ポリティカルコレクトネスの議論ばかりで、国防とかけ離れた論争にしかなってない。

平和ボケした日本は「痛い目見ないとわからない」ってしばしば言われるけど、既に我が国は「痛い目見てるのにわかってない」って状況なのがなんとも…。




…ただそれとは別に三浦瑠麗は嫌いです。

2018年1月21日日曜日

西部邁と夏目漱石「こころ」

覚えているのは20年程前、ネットなんかは無く、テレビが言論の主戦場で、朝まで生テレビなんて討論番組が世相の最先端、っていう時代。この番組での議論の趨勢がメディア全体の論調にも結構影響を与えていたなんて頃。

その頃の僕は10代半ば、誰しもあるように僕自身も社会と自分との関わり方の悩みを抱えていて、「まがいなりにもそれなりの識者達がいて、自分よりもずっと大人なこの人達の議論から何か学べるんじゃなかろうか」って感じで何も知らずにボンヤリとあの番組を見ていました。

当時の自分に議論の中身そのものを過不足なく理解はできたとは言えないけども、それでも彼らがほとんど空虚な、世相という薄甘い共通認識をレトリックの泥で塗り固めた凶器で相手を言い負かそうとする奴らばかりである事だけは理解できました。

そんな中で西部先生だけは、別の言語なのかと思うほど異なる言葉を話されていました。クソガキだった僕にもひと目で分かる、いい意味で他の言論人と全く異質なその存在。正直に白状すると当時の自分にその意味を全て理解できたとはとても言えないけども、それでも「この人だけは違う」と確信した記憶があります。

例え他の誰も主張している者がいなくても、例え他の誰にも理解されなくとも、自分の信じる言葉を誠実に話されるその姿。道に迷ってた時に西部邁の言葉を聞けたから、今の自分が多少なりとも物事が見えて、多少なりとも耳が聞こえるようになったんだと思います。

…いつかもしかしたら、こんな感じで西部先生に直接お礼をお伝えする機会があったらな、なんて考えていたのですが、残念ながらその機会は永久に失われてしまいました。本当に残念です。


夏目漱石の「こころ」の一節を思い出します。


 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

 「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

明治天皇が崩御され、乃木将軍も殉死された時に「明治」的なものが永久に去ってしまったと、「こころ」の「先生(あるいは漱石自身)」が感じた様に、こうして僕らからも今日、西部先生と一緒に戦前から戦後へと連なるマトリクスが去っていったような気がします。

知れば知るほど尊敬する先生でした。西部邁先生のご冥福をお祈りします。

2018年1月3日水曜日

馬鹿なことを言う権利 その2

前回の記事の続き




あまりに目に余る…。




オルテガ先生はこの手のタイプの人間を徹底的に批判しています。


かれら(大衆)の心の根本的な構造は、閉鎖性と不従順さでできているからであり、事物にたいしてであれ、人にたいしてであれ、自分らを越えた向こう側にあるものに服従する機能が、生まれつき欠けているからである。 (p.78)
大衆は大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(p.91)

紛いなりにも、朝生は30年以上の伝統ある番組で、僕も記憶にありますが、昔は本当にこの馬鹿みたいな幼稚な非武装中立論を叫んでた奴らがいたんですよね。しかしさすがに馬鹿すぎて駆逐されたという経緯があります。彼の知的不誠実さは、その30年の議論の結果を無下にし、30年分巻き戻そうとする所業であり、人間の文明の発展を阻害する行為にほかならないんですよ。


文明の、ある特定の原理に関心がないというのではなく、文明のいっさいの原理に興味がないのである。(p.95)
現代の大衆的人間は、じっさいに原始人であって、この原始人が文明の古い舞台のなかに書割からすべりこんできたのである。(p.97)

何よりも度し難いのは、学者に食って掛かる際に彼は「己の無知」を武器に食って掛かる有様。そして反論できなくなると、次は「反論できないこと」を武器に殴り掛かるという。

こんなのを重宝しようとしているらしい、田原総一朗も相当罪が深い。むしろ、発展しようとする議論に対して、意図してこの手の馬鹿を混ぜる事で振り出しに戻し、例えば日本の防衛力の強化への前提となる世論形成を阻害しようとする明確な悪意があるのではないか、と解釈せざるを得ません。

危険な潮流を感じますね…。

2018年1月2日火曜日

馬鹿なことを言う権利

妙な漫才師が討論番組に出演して、非常に陳腐な持論と詭弁を展開したことが話題です。非武装中立論だとか、沖縄は中国のものだとか、誰かを殺すぐらいなら殺される事を選択する等々の発言が批判されてますね。

まぁ確かにこれらも問題なんだけど、個人的にもっと酷いと思ったのはこちらの発言。




書き起こし:
「(自分は)視聴者の代弁者だから」
「みなさんこれテレビですよ。これは若い人からお年寄りまで見てるわけですよ。だから一から十まで聞く必要があるんですよ。」

自衛隊違憲論が何か分からない、などと、この手の議論をする上での最低限の前提すら知らず、それを批判されると「大多数の声」という架空の民意を持ち出し、自分が愚かな事を発言する権利を主張する。

人は社会的分業を行うもので、何かにつけ専門と専門外というのがあります。得手不得手があり、誰しも不得手な事があるのは、悪いわけでは無いと思います。憲法問題が理解できないなら出来ないでもいい。全くかまわない。

だけれども!
理解できていないということを笠に着て、理解していないがゆえに、己の無知ゆえに、その主張を声高に叫ぶ権利など無い。そんなもの言論の自由とは呼ばない。

この手の無知蒙昧な大衆に対して、スペインのオルテガ先生が「大衆の反逆」という本で的確に切り捨てています。


『人権』『市民権』のような共通の権利は、受身の財産、まったくの利益、恩恵であり、あらゆる人間が遭遇する運命からのありがたい贈物であり、その運命を享受するには、呼吸をし狂人にならないようにする以外なんの努力もいらない。(中公クラシックス版 p.74)
簡単に言えば、偶然かれの頭のなかにたまった空虚なことばをたいせつにして、天真爛漫だからとでもいうほか理解できない大胆さで、そういうことばをなににでも押し付けるのである。(中略)凡人が、自分は卓抜であり、凡庸でないと信じているのではなくて、凡人が凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押しつけているのである。(p.82)

自分が愚かであることを認識し、愚かであるがゆえの権利として、自分よりも優れた者に口を挟み、その議論を凡庸化させる有様。まさにオルテガ先生の批判した大衆そのもの。



そして、次はこの態度


書き起こし:
(自分の主張がいかに間違っているか指摘され)
「これって議論じゃないですか。これって議論でしょ。非武装中立でも良い面と悪い部分があるんですけど、今一斉に悪い部分を言ってるから、これ会話にならないから駄目です」

なんて酷い詭弁…。オルテガ先生はこう言います。


目が見えず耳が聞こえないにもかかわらず、かれらが口をだし、『意見』を押し付けないような社会生活上の問題は、一つもない。(p.84)
大衆的人間は、議論をすれば、途方に暮れてしまうだろうから、かれの外にあるあの最高の権威を尊重する義務を本能的に嫌うのである。したがって、ヨーロッパの『新しい』事態は、『議論をやめる』ことである。(p.87)

非武装中立がいかに問題か、と指摘している意見に反論があるならその非武装中立の良い面を自ら主張すべきなのを、詭弁を弄して、自分より優れた意見に耳を閉ざして己の意見を押し付け、より優れた意見を否定する。そうして議論そのものを否定する。

ああ。もう絶望したくなります。



オルテガ先生はこう書きます。

なんらかの問題に直面して、頭のなかにうまいぐあいに存在する考えで満足する者は、知的な面での大衆である。それに反して、まえもって努力して得られたのではなく、ただ頭のなかにあるものを軽んじ、かれの上にあるものだけを自分にふさわしいと受け入れ、それに達するために新たに背伸びをする人は、すぐれた人である。(p.79)

簡単にいえば、自分の頭に湧いてきた考えを重視せずより優れた意見に耳を傾け、そこに至るように謙虚に努力すべし、ということです。この漫才師にはその様子は一切伺えませんね。

僕自身も、現代人の一人として、こういった大衆的なものの呪縛から逃れられません。僕も明確にオルテガが批判した大衆人の一人です。しかし、それでも、こんな知的に不誠実な有様よりはいくらかマシであるとは自負します。

彼のような人物を他山の石とし、大衆的なものへの自らを律するための悪い見本とするべきだと、まさに凡庸さの戒めとして省みるべき事例だと思います。

2017年12月27日水曜日

筒井康隆「敵」

※ネタバレあり書評です。






筒井康隆は直木賞を受賞していません。他の文学賞はいくつも受賞しているのですが、あれほどの大家で、もしかしたら最後の「文豪」かもしれない人なのに、直木賞はありません。

SF作家としてデビューし、直木賞の選考自体には何度もノミネートされたそうなのですが、全て落選。その理由も(今の感覚では理解できないと思うのですが)「SFだったから」だそうです。当時のSF作品というのは、文学としては格が劣る「女子供の読むもの」といった感覚だったそうです。今で言えばラノベ的な立ち位置だったのかも。

そんな筒井先生、その恨みをまさに「文学的」に昇華し、「大いなる助走」という作品を書き上げます。その内容がとんでもなくて笑ってしまうのですが、とある作家が直廾賞という文学賞にノミネートされ、受賞するために選考委員の作家達へひたすら屈辱的な仕打ちに耐えながら根回しを奔走するも、あえなく落選し、その恨みから選考委員達を虐殺して回る、というぶっ飛んだ作品でした。

それ以降文学理論を用いてそこらの批評家を斬り捨てながら、「文学部唯野教授」「虚構船団」「虚人たち」「残像に口紅を」等々を書き上げるに至ったそうです。どれも一癖ある作品で、個人的には全て面白かったです。ただしオススメはしません。いつかこのあたりも書評させてもらいたいと思います。



「敵」は1998年出版で、筒井作品としては若干地味であまり話題にならないのですが、個人的にとても好きな作品です。出版社の自主規制に抗議した断筆宣言からの復帰後最初の長編でした。当時筒井康隆60歳代中盤で、かつて「大いなる助走」作中で殺して回った作家たちのような立場になった頃に書かれた作品といえるものです。



●「敵」

主人公渡辺儀助は定年退職した75歳の大学教授で、基本的には作品全体として彼のその日常が淡々と描かれています。地の文が独特で、作中に読点は一切なく、儀助の思考のモノローグと、日々の生き様が描かれます。

彼は聡明な元大学教授として己を律しながら、妻に先立たれた老後の日々を一人暮らしています。虚飾を排した「銀齢の果て」(誤字じゃないです)に、気高く生きて誇り高く死のとうする。緻密に描かれるそんな彼の日常に非常に惹かれます。妙な見栄を張った最後を迎えようと望む事すら、ある種の儀助自身の等身大な諧謔なんだろうな、と思います。

特徴的なのが、擬音や慣用語に妙な当て字がされており、最初は「ポマードを蔑たり(べたり)」だとか「匂いを粉粉(ぷんぷん)」といったように、上手く意味と音が当てられた使われ方をしています。そして中盤には笑い声が「悲悲悲悲(ひひひひ)」となり、最後には雨音が「使徒使徒」「死都死都」「歩足り(ぽたり)」と、儀助の心象風景が表れます。


「敵」とは儀助の半ば自覚、半ば無自覚のなかで、彼の「耄碌」として迫っています。彼はある時亡き妻を偲びながら自らの作った妄想の妻と言葉を交わします。

耄碌に近づく過程と自覚しているので最初のうち独言を発することに躊躇いはあったが次第に幻想の妻との対話の快楽を知り自分にそれのみは許して野芽り込んだ。「帰ってきてくれないかなあ。また、お前さんとずっと一緒にいたいんだよ」「無理だわよ」信子が笑う。

廊下を歩きながら低声で「おい。信子」と呼びかけてみたりする。何度か自然に呼びかけているうちにいつかは何気なく衣裳部屋から「何」と言って出てきそうに思うからだ

覚醒と耄碌のはざまで、亡くした妻への愛情ばかりが深まってゆく儀助は以前書いた100万回生きたねこの記事の主人公猫君と白猫の関係を思わせます。ただし儀助は主人公猫君とは違い非本来的に生きていたわけではなく、むしろハイデガー的本来性に近い生き方をしています。(ちなみに作中でもハイデガーは引用され、筒井康隆自身もハイデガーにかなり影響を受けています。)

そうして日々耄碌し続ける自分を実感しながら、
身辺の日用品をすべて綺麗に使い切り銀行預金がみごとになくなり冷蔵庫が空になった時が死ぬときだがその死にかたが重要だ。儀助は安楽に死ぬことができて死後に汚物や血を残さず人にさほど迷惑をかけぬ美しい死にかたがしたいのだ。
として自決するための手段を定めます(詳細は割愛)。 その上で、
(もし死ねなければ)その先にはと言えば二度と面倒な手続きを繰返して死のうという気は起こらず呑便だらりと九十歳百歳まで老醜を晒し他人にさんざ迷惑をけけてから死ぬという儀助の最も嫌いな最後が待っている。

 として、自裁の為の周到な準備と手段を整えその日まで日常を過ごします。(「呑便だらり」も見事で、痴呆の進行を意味した当て字ですね。)

しかしそんな儀助に対し残酷にも「敵」は襲いかかり、儀助は耄碌の度合いを増していきます。そこで描かれるものは、一体どこからどこまでが彼の妄想で、一体何が現実であったのか。

ハイデガー的に自らの死と向かい合う聡明な老人であったはずの儀助と、彼の頭脳を蝕む残酷な「敵」。この作品を初めて読んだのは高校生の頃でしたが、ガキに理解も実感もするべくもないハイデガー的本来性が、今思えばこの作品を通じていくらか自分の中に埋め込まれた作品であったと思います。

これ以降、何か物事を考える時、この儀助的なものを念頭に置きながら考えるのが常となりました。僕にとっては非常に大きな作品です。