2017年3月6日月曜日

くそったれ!世界遺産

 タイトルはチャールズ・ブコウスキーの「くそったれ!少年時代」的に。

関係ないですが、この作品の原題は「Ham on rye」だそうで、ハムを挟んだライ麦パンの事。つまり、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を意識したタイトルです。サリンジャーに何か感じるものがある方は、ブコウスキーも是非読んでみてください。そのうち彼の書評も書きたいと思います。








…以下、備忘録も兼ねて書き殴り。

世界遺産って一体何がいいんですかね。僕は世界遺産が嫌いです。そしてそれを有難がる風潮も心底軽蔑する。別にへそ曲がりで、世間の逆張りしたくて言ってるわけではなく、合理的かつ心情的に心の底から嫌いだ。

戦勝国寄り合い所帯たる国連とその外郭団体ユネスコ。我々を未だに敵性国家としてその条項に盛り込んだままのクソッタレ組織に属するクソッタレ機関から、お褒めいただいて一体何を喜んでいるのか。

何故、文化や伝統の価値の優劣を人間が判断するのか。人の営みたる文化の優劣判断を付けれるのは、それは人間を超越した存在でしかない。それを、なぜたかだか戦勝国寄り合い所帯の一外郭団体でしかない彼らが、一体どういう了見で優劣をつけているというんだ。世界中のあらゆる伝統、文化、歴史、価値…そういったものを全て網羅、理解したうえでなければ、その優劣の判断など不可能だろう。そんなもの人間にできるものか。

さらには、何故そんなものの認定を有難く押し頂かなければならないのか。胸を張り、背筋を正して大きな声で言えばいい。我が国の文化伝統こそが最も尊い、と。

文化は自身の精神と肉体に深く刻まれたもの。すなわち自身と分かちがたい不可分であるもののはず。我々自身の肉体と精神とともに息づいたものであるはず。

であるならば、「文化を守ろう」という意識など持つまでもなく、プロシュート兄貴も言っているように「既に守っている」ものではないのか。自分の肉体を意識しなければ守れない人などいないでしょう。「守ろう」などと呼びかける時点で、既に我々と文化とが分かたれてしまっている、という事を自覚せねばならないのではないか。

文化と我々が不可分なものであるのだから、我々の生活に息づいたものであるのだから、それらを隔離して檻に閉じ込めてその外側から眺めるという事に違和感を抱かなければならない。これでは文化遺産という名の見世物小屋ではないか。それを "外国の方々" に観光にお越しいただいて閲覧していただくなどと言う事をどうして不快に感じられないのか。そこで見世物にされているのは、我々自身の血肉となっているもの。我々自身ではないのか。

そういった文化を観光資源にするということは、その本質的価値を徐々に削り取って、僅かな金子へと換金している行為にほかならない。世界中の観光名所を見てみればいい。人に踏み荒らされ摩耗しその歴史的価値がいかに削り取られ続けているか。そう遠くない将来に観光的価値の失われる観光名所というのが、日本に限らず世界中にあらわれるだろうね。

別に観光という行為そのものを否定したいのではない。観光によって生まれるあらたな文化もまたある。要はものには加減があるということ。貴重だから価値があり、非普遍的だから有難い。今まで受け継いだものを、ほんの少し頂いて、ほんの少し自分たちが改善したり痕跡を残した上で、次の世代へ引き渡す。そうすることで我々自身もまた伝統と文化という文脈へ還元される。その概念のことを「保守」と呼ぶのだ。右派のことが保守なんかではない。

我々の受け継いだ文化が何故現代において価値があるかというと、先人たちがそうやって今までメンテナンス(つまり保守)しながら維持し継承してきたからその価値がある。それを我々が、こうも消費してしまう事の異常性を何故みんな感じられないんだ。

人間が侵犯したせいで脅かされている動物たちを守るためとその啓蒙という側面を持つ動物園なら分かる。しかし、それを人間が人間の文化に行うというおぞましさ。我らが文化はツチノコか何かですか?

更には世界遺産に指定されてから、ようやくそれを有難がる人々。富士山は日本の象徴だといいながら、同時に平気で踏み荒らし汚していく。世界遺産に指定されてからようやく清掃作業などを始める本末転倒ぶり。その点、野口健氏はそんな世情とは一線を画しながら、ずっと以前から清掃活動を続けられ、その実情について啓蒙されており、本当に心から尊敬します。

略奪や政治的宗教的対立から保存が危ぶまれている歴史的遺産を守るために保護指定していくのは結構なことでしょう。是非やればよろしい。では、我が国の文化遺産がそういった危険にあるのか否か。あるとしたら何故?誰によって?

つまり、我々自身が、自分で自分たちの文化と伝統を貶めて、毀損させていると言わざるをえない。

人間自身の営みの記録とでも言うべき文化、人間の歴史の重みそのままが形となしている文化を、「世界遺産」などという低俗なカテゴライズしレッテルを貼る行為。本当はその受け継いできたものの重さ、それ自体を尊重すべきものを、保護などと言いながらフェンスで囲い、本当の人間の営みから切り離す行為。そうすることで、まるで現在に生きる我々が文化伝統をその手中に収めコントロール下に置こうとするような行為。人の文化に優劣をつけようとする奴らも、それを有難がる奴らも、等しく卑しいと言わざるをえない。

そうではないんだ、文化伝統こそが主で、我々は従でしかない。

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