2017年12月27日水曜日

筒井康隆「敵」

※ネタバレあり書評です。






筒井康隆は直木賞を受賞していません。他の文学賞はいくつも受賞しているのですが、あれほどの大家で、もしかしたら最後の「文豪」かもしれない人なのに、直木賞はありません。

SF作家としてデビューし、直木賞の選考自体には何度もノミネートされたそうなのですが、全て落選。その理由も(今の感覚では理解できないと思うのですが)「SFだったから」だそうです。当時のSF作品というのは、文学としては格が劣る「女子供の読むもの」といった感覚だったそうです。今で言えばラノベ的な立ち位置だったのかも。

そんな筒井先生、その恨みをまさに「文学的」に昇華し、「大いなる助走」という作品を書き上げます。その内容がとんでもなくて笑ってしまうのですが、とある作家が直廾賞という文学賞にノミネートされ、受賞するために選考委員の作家達へひたすら屈辱的な仕打ちに耐えながら根回しを奔走するも、あえなく落選し、その恨みから選考委員達を虐殺して回る、というぶっ飛んだ作品でした。

それ以降文学理論を用いてそこらの批評家を斬り捨てながら、「文学部唯野教授」「虚構船団」「虚人たち」「残像に口紅を」等々を書き上げるに至ったそうです。どれも一癖ある作品で、個人的には全て面白かったです。ただしオススメはしません。いつかこのあたりも書評させてもらいたいと思います。



「敵」は1998年出版で、筒井作品としては若干地味であまり話題にならないのですが、個人的にとても好きな作品です。出版社の自主規制に抗議した断筆宣言からの復帰後最初の長編でした。当時筒井康隆60歳代中盤で、かつて「大いなる助走」作中で殺して回った作家たちのような立場になった頃に書かれた作品といえるものです。



●「敵」

主人公渡辺儀助は定年退職した75歳の大学教授で、基本的には作品全体として彼のその日常が淡々と描かれています。地の文が独特で、作中に読点は一切なく、儀助の思考のモノローグと、日々の生き様が描かれます。

彼は聡明な元大学教授として己を律しながら妻に先立たれた老後の日々を一人暮らしています。虚飾を排した「銀齢の果て」(誤字じゃないです)に、気高く生きて誇り高く死のとうする。緻密に描かれるそんな彼の日常に非常に惹かれます。妙な見栄を張った最後を迎えようと望む事すら、ある種の儀助自身の等身大な諧謔なんだろうな、と思います。

特徴的なのが、擬音や慣用語に妙な当て字がされており、最初は「ポマードを蔑たり(べたり)」だとか「匂いを粉粉(ぷんぷん)」といったように、上手く意味と音が当てられた使われ方をしています。そして中盤には笑い声が「悲悲悲悲(ひひひひ)」となり、最後には雨音が「使徒使徒」「死都死都」「歩足り(ぽたり)」と、儀助の心象風景が表れます。


「敵」とは儀助の半ば自覚、半ば無自覚のなかで、彼の「耄碌」として迫っています。彼はある時亡き妻を偲びながら自らの作った妄想の妻と言葉を交わします。

耄碌に近づく過程と自覚しているので最初のうち独言を発することに躊躇いはあったが次第に幻想の妻との対話の快楽を知り自分にそれのみは許して野芽り込んだ。「帰ってきてくれないかなあ。また、お前さんとずっと一緒にいたいんだよ」「無理だわよ」信子が笑う。

廊下を歩きながら低声で「おい。信子」と呼びかけてみたりする。何度か自然に呼びかけているうちにいつかは何気なく衣裳部屋から「何」と言って出てきそうに思うからだ

覚醒と耄碌のはざまで、亡くした妻への愛情ばかりが深まってゆく儀助は以前書いた100万回生きたねこの記事の主人公猫君と白猫の関係を思わせます。ただし儀助は主人公猫君とは違い非本来的に生きていたわけではなく、むしろハイデガー的本来性に近い生き方をしています。(ちなみに作中でもハイデガーは引用され、筒井康隆自身もハイデガーにかなり影響を受けています。)

そうして日々耄碌し続ける自分を実感しながら、
身辺の日用品をすべて綺麗に使い切り銀行預金がみごとになくなり冷蔵庫が空になった時が死ぬときだがその死にかたが重要だ。儀助は安楽に死ぬことができて死後に汚物や血を残さず人にさほど迷惑をかけぬ美しい死にかたがしたいのだ。
として自決するための手段を定めます(詳細は割愛)。 その上で、
(もし死ねなければ)その先にはと言えば二度と面倒な手続きを繰返して死のうという気は起こらず呑便だらりと九十歳百歳まで老醜を晒し他人にさんざ迷惑をけけてから死ぬという儀助の最も嫌いな最後が待っている。

 として、自裁の為の周到な準備と手段を整えその日まで日常を過ごします。(「呑便だらり」も見事で、痴呆の進行を意味した当て字ですね。)

しかしそんな儀助に対し残酷にも「敵」は襲いかかり、儀助は耄碌の度合いを増していきます。そこで描かれるものは、一体どこからどこまでが彼の妄想で、一体何が現実であったのか。

ハイデガー的に自らの死と向かい合う聡明な老人であったはずの儀助と、彼の頭脳を蝕む残酷な「敵」。この作品を初めて読んだのは高校生の頃でしたが、ガキに理解も実感もするべくもないハイデガー的本来性が、今思えばこの作品を通じていくらか自分の中に埋め込まれた作品であったと思います。

これ以降、何か物事を考える時、この儀助的なものを念頭に置きながら考えるのが常となりました。僕にとっては非常に大きな作品です。

2017年11月10日金曜日

進撃の巨人 その2 壁の外の向こう側

※進撃の巨人のネタバレが多数含まれます。全話既読である事前提に進めますので閲覧注意












前回の記事の続きとして、進撃の巨人について書きたいと思います。言いたいことは殆どそっちで書いてしまっているので、是非そちらをご覧の上読んで頂ければ幸いです。

本当に面白く、毎号楽しみにしてはいるのですが、連載開始当初から主人公エレンの言動で、一つだけどうしても引っかかるものがありました。


第1巻 3話
エレン「俺には夢がある…
巨人を駆逐して この狭い壁内の世界を出たら…
外の世界を探検するんだ」

第4巻 14話


序盤はこの「壁の向こうには自由があり、追い求めている世界が広がっている」といった事がエレンのその信念の一つとして描かれています。巨人を駆逐さえすれば、閉塞した壁の中から飛び出し、もっと自由な世界へ歩み出せるんだ、とエレンは夢を見ていました。

一気に話数を飛ばしますが、紆余曲折を経て、エレン達は壁の中で「家畜の安寧、虚偽の繁栄」を貪っていた王族派を倒し、さらに壁の外の巨人達も駆逐しました。


第22巻 90話
巨人を駆逐し、エレン達は念願の「海」を見る


進撃の巨人という作品自体の ”オチ” に、そういった巨人を駆逐し壁の外の、「商人が一生かけても取り尽くせない塩の湖」だとか「炎の水や氷の大地や砂の雪原」が広がる世界へ出ていくんだ、という夢物語なファンタジーとして終わるんじゃないか、という事だけが作品の序盤から読んでいてずっと気がかりでした。

しかし前回書いたように、壁の外の世界にはさらなる絶望がひろがっているのみでした。巨人のような分かりやすい敵だけではなく、その外にはさらに大きな「世界」が敵として、エレン達の生存を脅かしているという現実に直面します。エレン達が戦わなければならないのは、そういった世界そのもの、あるいは歴史や文明といったものでした。


第22巻 90話

エレン「壁の向こうには…海があって 
海の向こうには自由がある
ずっとそう信じてた…
…でも違った 海の向こうにいるのは敵だ 
何もかも親父の記憶で見たものと 同じなんだ…
…なぁ? 向こうにいる敵… 全部殺せば 
…オレ達 自由になれるのか?」

このシーンでもって、進撃の巨人は間違いなく歴史にのこる名作になったと思います。

※余談ですが、エレンは「全部殺せば自由になれるのか」と、皆殺し宣言のように聞こえるような発言をしてはいますが、それを本当に目指しているわけではないと解釈すべきだと思います。リヴァイが言う「不足を確認して現状を嘆くのは大事な儀式だ」というものだと思います。

壁の向こう、巨人を駆逐した先、エレンが夢にまで見た自由の世界。しかしそこには自分達を滅ぼそうとしてくるさらに強大な敵がいるだけ、という現実にエレンは打ちひしがれます。壁の中に存在する敵を倒し、壁の外の敵を駆逐したら、その海の向こうにはさらなる敵がいる。僕らの現実そのものです。

そして、しばしば陥りがちな思考ですが、目の前のわかりやすい敵対する存在に世界の悪性の全てを投影し、それさえ無ければ自分(あるいは自分達)はもっと自由に生きられるのに、もっと活躍できるのに、もっと人生を謳歌できるのに、と思いがちです。しかしこの世の中にそんな分かりやすい「悪」など存在しません。

それどころか、時には敵と交渉したり、取引したり、手を結んだり、共闘したり、あるいは同盟さえ結ぶことすらあります。進撃の巨人の今後は恐らくそんな物語になるのではないでしょうか。

エレン達がその絶望的な世界と戦うように、現実の僕らもまたそうあるべきなんだろう、そう強く感じる作品です。

2017年10月30日月曜日

維新と社民の共依存

「右派」な維新と「左派」な社民(元社民含む)の国会議員たち。彼らは左右正反対なようで、その実は全く同質な非常にたちの悪い政治家であると確信しています。今回はそれについて書きます。

今回は予め申し上げておきますが、コメントを頂いても対応しないか、あるいは削除等の対応をする事があります。以前からこのブログ以外での某所等々あちこちで維新批判した事がありましたが、その際しばしば維新信者と思しき人物から、熱烈なラブレターを頂くことがありました。何が言いたいのか全く理解できないが維新批判をする僕を許せないという思いだけは熱烈に綴られた熱い熱いラブレターです。僕もできるだけ誠実で在りたいと思う人間ですが、対応しきれる限度がありますので。勿論そういうの以外のコメントは歓迎です。まぁ場末のアクセスの少ないブログなので杞憂だとは思いますが。





●足立康史の嘘


維新の会の衆議院議員の足立康史という人物が、選挙前の公約として
https://twitter.com/haradaryo_net/status/917737285273108480
「小選挙区で落選したら比例復活せずに、政治家として引退する」と、公開討論会で明言しました。「退路を断って戦うので、是非自分に投票してください。」という趣旨の主張になります。そして投票結果は
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/kaihyou/ya27.html#k009
見事選挙区落選、比例復活です。

そして開票の翌日に足立康史は
https://twitter.com/adachiyasushi/status/922262251729334273
と、即座に前言を翻し、全く意味が分からない理屈でもって比例復活して国会議員になると宣言しました。

端的に言って嘘をついて有権者を騙したわけです。常識のある人なら、こんな嘘が許されるわけがないのは議論するまでもなく理解いただけるでしょう。残念ながらその常識がない人が多いのか、足立の嘘を許し国会議員になる事を歓迎する人が多く、心の底からおぞましくて呆れ返ってしまいました。(余談ですが、足立が嘘をついて議員になるであろう事はわかりきってはいましたけどね。維新なんてこの程度の「輩(やから)」の愚劣な集団でしょう。)




●目的は手段を正当化するのか


その足立を許し評価する人々の主張を見ると、最も多かったのが「辻元清美のような奴と戦うために足立康史は必要なのだ」といった類のものでした。足立は辻元を舌鋒鋭く批判していたらしいです。僕は興味ないので知りませんが。

確かに僕も僭越ながら、辻元清美のことは蛇蝎の如く嫌わせてもらってます。いや、蛇やサソリのほうが可愛いぐらいですね。可能なら溶鉱炉かなんかに放り込みたいぐらい憎悪してます。鉄にでも溶かして鉄筋にしてコンクリートに埋めてダムとか堤防とかのインフラに使ったほうがこの国の役に立つだろうな、と思うぐらい嫌いです。しかしその辻元を追放する為に犯罪を犯そうと思わないのと同様に、国会議員の嘘つきを許容しようとも思いません。ましてや、そいつらもまた共犯関係にあるのではないのか、と憶測したくなるような奴らならなおのこと。

足立あるいは維新と、辻元あるいは社民系は、互いに批判しながらその実相手の存在に自分の存在基盤を依拠する、「共依存」という現象であると思います。




●共依存とは


心理学でもしばしば使われることもある、元々は「アル中の旦那を世話する奥さん」といった夫婦にある種独特な関係性がある事を指した言葉です。アル中で一人では生活できなく世話してくれる奥さんが必要な旦那と、そんな介護する自分を旦那に必要とされる奥さん、というように互いが互いの存在の必要性を依存しあう事を指します。ある種究極の愛と呼んでもいいかも知れないですが、ただその際に問題なのは、場合によってはアル中そのものを改善しようという意思がなくなってしまう事です。それどころか、旦那はより積極的に自堕落に酒に浸り、奥さんは尚更にそんな旦那を甲斐甲斐しく世話をするようになってしまう事です。

アル中のような悪性のものを介した共依存というのは、それを更に深化させるスパイラルを持つ、非常に危険な依存関係なのです。もちろんアル中といった依存症からの脱却に家族の力が必要だったりするのも事実なのですが、場合によってはそのように事態を悪化させるケースもある、という事です。

これを足立と辻元の関係でみていくと、足立にとって辻元は批判しているだけで支持が固められる非常にお手軽な手段であり、しかもその支持層は、政治家にとって最もついてはならない一つである当選のためについた嘘すら許容してくれるという、政治家であり続ける為にこの上なく貴重な存在である事。辻元にとって足立(あるいは維新)は、左派が常にこの日本の選挙で一定程度の確実な得票を得ている事から、「反右」としての存在意義を強調する為に無くてはならない存在でしょう。まぁ辻元の気持ち悪さなんて述べるまでもないですよね。今更コイツに関して何か書こうとも思わないです。


つまり、足立のhttps://twitter.com/adachiyasushi/status/923602407145332736
こんな発言に見られるように、辻元がいなくなったら国会でプレゼンスを発揮できない足立、そんな足立(維新)への批判票が集まる辻元。足立は辻元を批判することで国会議員になっているし、辻元は足立のような存在がいるお陰で、議席を確保できているわけです。これは正に共依存。


その傍証となるものを示しましょう。http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/kaihyou/ya27.html#k010
これは辻元清美の選挙区大阪10区の今回の選挙結果です。まさかの辻元が選挙区トップ当選。こいつ秘書給与詐取の前科持ちですよ。こんなクソ野郎がトップ当選とかあり得ないんですが、この立候補者3名をよく見るとその原因がわかります。

トップ当選が辻元、2位の比例復活が自民党、3位落選したのが維新の立候補者です。もし本当に維新が辻元清美を国会から追い出したいのであれば、自民党と選挙協力をし、ここに立候補者を立てなければ、維新に入っていた票はまず間違いなく自民党へほぼ全て入ったでしょう。つまり自民が選挙区でトップ当選となり辻元は間違いなく落選していたわけです。但し、仮に維新票を全て自民に足した場合、辻元の惜敗率は大体75%で、近畿ブロックの立憲民主は今回惜敗率50%程度で比例当選しているので、恐らく比例での復活当選にはなったとは思います。しかし、政治家にとって選挙区落選というのはものすごく非常に大きな意味を持ちます。これを維新が理解していないわけがありません。

本当にこの国の為をおもうなら、ここは自民と選挙協力をし(水面下での内緒の交渉で構わない)、辻元の発言権を削ぐためにも、絶対に維新の候補者を立ててはならない選挙区だったはずです。それをこの様に対立候補を立て、結果として辻元を当選させるなど、辻元を応援しているのと全く同じであると言わざるを得ません。



足立と辻元、あるいは維新と社民系は、非常に根深い共依存であり、どちらもこの国に仇成す存在である、と僕は結論付けます。

2017年9月26日火曜日

監督降板と希望の党


けものフレンズというアニメが、続編を期待される中、その監督が版元(角川)からの通達によるものだと明言したうえで2期監督から降板になった事を公表しました。完全に死んだ作品だと思われていたのを、ほぼ一人で再興し、一つの大きな流行にまで持ち上げた功労者であるにもかかわらず、だそうです。

かなりの炎上騒動になっているようです。版元の行儀の悪さについては今更言うまでもない社風の会社だし、その批判は当然なのでココでは今回触れません。

ただ、この様子を見ていて、僕としては違和感を禁じえません。一体この騒動の何に違和感があるのか。いくらか考えて仮説を得られたので少し書いていきたいと思います。




結論としては…

騒いでる方々、作品そのもの自体には価値を見出していないのでは? あるいは、ある種のフロックなブームに便乗しているに過ぎない事を半ば無意識下で自覚してやいませんか?

署名運動などがあるように、どうにも「けものフレンズ」と「監督」とを過剰に結びつけているように思います。監督を作品に縛り付けよとしている、と表現したほうが適切でしょうか。勿論監督のその功績は多大なものなのは間違いないでしょう。彼なしではありえなかった、そんな才能の持ち主なのでしょう。

であるならば、その有能さの実績を持つ作家として増した権限や発言力により、次作は間違いなく予算やスケジュール等の制限を緩やかに、より自由に作品が作れるはず。なのに騒いでるファン達にどうして「次作を楽しみにする」という人がこうも少ないのか。勿論そうではない方もいるんでしょうが、少なくとも騒いでる人たち多数には見られない。

本当にその監督の作品が好きならば、今回の一件は、一方で残念であったとしても、もう一方で次の作品を楽しみにするものでしょう。ファンであるならば。それがどうにも、こんな騒動になりつつあるのは、彼ら自身、けものフレンズという作品そのもの自身に対して根本的な興味を持っているわけではないのではないか。

これは彼らにとって「けものフレンズブーム」それ自身がある種のポジティブな「炎上」であり、その作家の作品そのものに本質的な興味があるわけではなく、「"独特な間合いの空気と意外に身が詰まった王道なシナリオのギャップを楽しむ作品"という一連のムーブメント」それ自体が目的化してはいないか。そしてその「ムーブメント」に放り込まれた次のイベントとして、「監督の更迭劇」という第二幕を騒いでるのではないのか。

更に、もしかしたら監督の次作に対しては今回ほどそのブームを楽しめないのではないか、という「自分達のこのムーブメントが実は空虚なものであると実感させられる事に対する恐怖」から、この一連の騒動が起きているのではないか。




この現象、小池百合子の一連の騒動にその類形を見ることが出来ると思います。

1.舛添バッシングにより自分達の選んだ知事を引きずり下ろして
2.小池百合子を選挙によって担ぎ上げ
3.小池はその暗愚さを露呈しているにもかかわらず
4.未だに高支持率を維持している

つまり、舛添を下ろしたらもっと酷いのが出てきた状況で、自分達の選択が誤りであったことを認めたくがないが為に未だに小池が高支持を維持しているように、けものフレンズブームが空虚なものであったと認めたくないというマクロな群集心理による騒動ではないのか。

そんな解釈ができる気がします。



ちなみに僕自身のこの作品の感想を一言で述べるなら、深夜ではなく夕方頃にNHKなんかで放送されるべき良い作品だな、と思います。




※念のため付け加えますが、作家潰しで有名な某少年誌編集部のように、この件によって監督の能力と才能がつぶされる事があってはいけないと思うし、そうなりそうな降板そのものにはかなり批判的に思ってます。ただ同時に、角川には角川の商売上の都合もあるだろうな、とは思います。まぁこのあたりは部外者にはうかがい知れない事ですけども。

2017年9月6日水曜日

Illidan Stormrage



今回はちょっと自己満足投稿





World of WarcraftというMMOの最新のトレイラームービーがあまりに素晴らしかったので、それを下手くそな和訳と、僕が知りうる限りの解説を少々。WoW以前のWarcraftシリーズはプレイしていないし、WoW自体ももう10年近くプレイしていなくて知らない事のほうが多いですがご容赦を。





Turalyon(銀髪Paladin):
「Xe'ra、あなたが再臨されて我々は祝福されました」

Xe'ra(板):
「Turalyon…『選ばれし者』を見つけましたね
Illidan、生まれた時から瞳の光に、約束された未来を持つ者よ」

Illidan(デビルマン):
「そんな生得権(birthright)は随分昔に犠牲にした」

Xe'ra:
「再び一つに戻るために、失ったものを取り戻したくないのか?」

Illidan:
「Legionの終焉のみが、俺の求める全てだ」

Xe'ra:
「我が子よ、そんな些細な事に、汝は十分寄与した。
汝の本当の可能性、取り戻すべき物は眼前にある。
粉々になった形を捨て、光の力を受け入れよ」

Illidan:
「俺は昔、自らの自由と引き換えに力を得たんだ」

Xe'ra:
「予言は果たされなければならない。
(Illidanを束縛)
汝の古い人生は過ぎ去った。
光は汝を新しく作り変える」

Illidan:
「それはお前にくれてやるものではない!」

Xe'ra:
「光は汝の傷を癒やすだろう」

Illidan:
「俺の傷は俺自身だ!」

Xe'ra:
「光が汝の運命だ」

Illidan:
「俺の運命は俺のものだ!」
(目からビーム、Xe'raは粉々)

Turaylon:
「貴様はみんなを絶望に叩き落とした! 裏切り者!」

Illidan:
「お前の信仰心が目を曇らせている
『選ばれし者』などいない
我々のみが…我々自身を救うことが出来る」







Illidan…いいですね…。セリフの全てが魅力的。俺の傷が俺自身だ、なんて凄い。彼は成功者でもなんでもなく、むしろ辛酸ばかり舐めさせられてきた辛い人生であるのに。

僕もあまりWarcraftシリーズのストーリーをしっかり把握してるほうではないので不正確ですが僕が理解している限りでざっと概略を。IllidanはNight Elfとして生まれ、彼らは「Well of Eternity」という魔力が無尽蔵に溢れ出る泉を持ち、その加護のもとで不老不死であり、自由に魔法を行使していたそうです。

その泉を異世界のBurning LegionというScougeの軍団に目をつけられ、Night Elf達は侵略をうけます。Illidanの双子の兄、MalfurionはWell of Eternityを破壊して魔法を捨てることでそのLegion達から狙われなくしようと提案し、Night Elf達は受け入れ、Scougeもろとも泉を破壊します。Illidanはそれに反対し泉の一部をこっそり持ち出し、Night Elf達の避難先のMount Hyjalで使用し、第二のWell of Eternityを再建しました。しかしそれを咎められ、Illidanは監獄に1万年幽閉されてしまいます。

その後も色々あって、Mount Hyjalが再びScouge達に攻め入られた際、Illidanが片思いをしていたTyrandeは幽閉されたIllidanを開放し、Scougeから助けてくれと請います。Illidanはそんな自分を幽閉した上に恋敵であるMalfurion達Night Elfを助けたり、更にはDemonを倒すためにDemonの力を手にれて悪魔の姿に身を落としたり……。等々しながらめっちゃ頑張ります。でも誰からも評価されずにThe Betrayer(裏切り者)と呼ばれるという。

彼のその生まれながら持つ金色の瞳の光も、力を得る対価としてBurning Legionの親玉Sargerasに焼かれてしまったそうです。


上の動画は、そこからもっと後の今現在「攻め込まれてばかりではダメだ、Burning Legionに攻め込んで倒そう」とAzerothの人々が立ち上がり、Illidanを含め、色んな人達の力を合わせて軍備を進めている一コマのようです。そんな彼が「俺の傷が俺自身だ」とか「俺の運命は俺のものだ」とか…。グッときます。

実際のところ、彼のクラスは彼自身が始祖のDemon Hunterであるし、対Demon特化の能力を持つWarglaive of Azzinothという武器を装備していたりと、その意思は間違いなく本物のようです。

ついでに言えばゲーム内で彼を倒すと、Memento of Tyrandeなんて、小さな花のTrinketをドロップします。Tyrandeとの思い出、というアクセサリー。センチメンタルだなぁ。




……さらについでに、Well of Eternityの魔力を捨てれば狙われなくなるから魔法なんて捨ててしまおう、ってどっかで似た話をよく聞きますよね。曰く、「防衛力、自衛力を持つから戦争を呼びこむんだ。だから自衛隊なんていらない」とかなんとか。

そういう意味でも僕はIllidanが大好きです。


2017年8月31日木曜日

進撃の巨人と "勝てる喧嘩"

※注意 進撃の巨人のネタバレ含みます

9/1 誤字訂正と若干の追記




●勝てる喧嘩と無謀な戦い



戦前の日本軍というものは、どうやら左・右どちらからもかなり批判的に捉えられているようです。左からは、暴虐で邪悪で非人道的で自国のためならどんな蛮行も厭わない狂気の暴力集団として。右からは、無能な上層部が結果的に国を破滅へと追いやった愚劣な集団として。


前者は今更議論しようとも思いません。一体何周遅れの何十年前の議論なのだ、って感じです。未だにそんなの信じてる人とは関わりたくないです。一方後者はしばしば見かける意見であると思います。


曰く、「なぜあのアメリカと喧嘩しようとしたのか」「なぜ真珠湾を叩いて寝た子を起こすような真似をしたのか」「なぜインパール作戦のような無謀な計画を立てたのか」「なぜ特攻などという愚かな戦術を用いたのか」……etc.etc.


僕は戦史に詳しくないので、その作戦の妥当性などについては今回は触れません。むしろそれらの意見を聞く限り、割りと同意する所もあるなぁ、というのが僕の意見です。あるいはよく言われる「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」、というように過去の歴史を振り返って批判し学ぼうとするのは正しいと思います。


更に加えて、責任者は責任を取るためにいてるのであり、その結果が敗戦であるのならば、やはりその責は軍指導部や政治家、官僚たちにあったのでしょう。




●現代の「無謀な戦い」




では何が問題であるのか。僕が何を言いたいかというと、その賢者として歴史に学ばんとするはずの人々が、同じ愚策を繰り返そうとしているとしか見えないからです。当時の日本の立ち位置をものすごく大雑把に纏めると



  1. 植民地主義の西欧列強が、覇権国として「世界」を牛耳っている
  2. 日本はその「世界」に対して自国の存立をかけ、挑戦者として戦いを挑む


というのが、滅茶苦茶大雑把な要点です。

この構図、現代でも全く同じだと考えます。


  1. 第2次大戦の戦勝国として、今の世界の「ルール」を掌握する大国
  2. 日本はそのルール下で、押し付けられた戦犯国家という立場からの脱却を目指す

世界のルールとは現在のこの各国のパワーバランスと秩序であり、この世界の秩序とは「正義の連合国が、悪のファシスト枢軸国を打ち倒し世界大戦を終結させて平和をもたらした」という神話のもとに成り立っています。敗戦後のGHQ統治以来、変わらずこの世界に明確にありつづけている、我が国を「戦犯国家」という立場に押し込め、手足を奪い、拘束し、名誉を回復させまいとする、我が国に対する明確な敵意がこの世界には存在しているのです。(ちなみに、それらは中韓のような国が主導して行っているプロパガンダなどではなく、むしろ彼らはそのルールに便乗して日本を貶めることで自らの利益へと還流させているに過ぎません)

「戦犯国家という立場」というのは具体例をあげると、例えば未だに払拭されない、従軍慰安婦や南京大虐殺などという、捏造された大嘘が「常識」としてこの世界にまかり通っている事です。あるいは、東京裁判史観と言われるような、「平和に対する罪」という、連合国側からの極めて一方的な価値観による彼らの自己欺瞞を成り立たせるための「悪役」を我々に押し付けているものです。


理解いただけるでしょうか。僕としては至極当たり前な事を書いているつもりなのですが…。






●進撃の巨人と "敵"


※以下ネタバレ注意
原作既読を前提に進めます。











そして同様に「押し着せられた不名誉と、その認識が支配する世界」というこの世界の一面を描いているのが進撃の巨人であると思います。

46話 ライナーとベルトルトの背後にいる本当の "敵"


壁を破壊した犯人であるライナーやベルトルトは尖兵にしかすぎず、その背後にはより大きな存在があることが示唆されます。ではその背後とは?


主人公たち、壁の中の民であるユミルの末裔エルディア人は、巨人化の力を持ち、その力をもってかつては大陸を支配しました。しかしその後内戦から巨人の力の多くを奪われ、そんな戦争を忌避し、何者からも侵略されない(と思い込んでいた)安全な壁を作り上げその中で生きていました。

しかしその壁の向こう側マーレ人達はかつて侵略された経験から、エルディア人達を「悪魔の末裔」と呼び蔑んでいます。そのマーレはかつては大国であった自国の地位を取り戻すため、壁の中から「始祖の巨人」の力を奪う事を大きな目的としています。更にはそのエルディア人の血を根絶やしにしようとアジテーションとプロパガンダすら行われています。エルディア人がいかに暴虐で残忍でただただ力であらゆるものを奪い尽くした、残虐非道なまさに「人でなし」として扇動され憎悪をたぎらせ続けています。

実際のところは、作中の歴史上たしかにエルディア人達がその圧倒的な巨人の力で平定したのも事実のようです。しかし一方でただ暴虐にその力を使ったわけではなく、その力でもってまさに下部構造として、インフラストラクチャーを構築し文明を大きく発展させました。マーレ人達はそのインフラの恩恵に大きく与りながら、同時にエルディア人を酷く差別し、壁の外のマーレ国内に取り残されたエルディア人を、アンタッチャブルな被差別市民として差別し迫害しながらコントロールしてその奪った巨人の力を利用し国家基盤としています。










89話「敵が巨人という化物だけであればどんなによかったでしょうか。しかし我々が相手にしていた敵の正体は 人であり 文明であり 言うなれば世界です」

そしてそのエルディアの末裔である主人公たちは、「残虐非道なエルディア人」として自分達を敵視する「世界」に対して、生存を賭けて戦います。

これは本当に現状の日本そのままをフィクションに落とし込んだ作品だと思います。先程の戦前・戦後の構図で当てはめれば、


  1. 邪悪なエルディア人を撃退した、正義の国家「マーレ」
  2. エルディア人は「悪魔の末裔」と蔑まれ、自分達を滅ぼそうとするその「世界」と戦う

となると思います。





●現代日本と "敵"


憲法9条と壁だとか、ただただ厭戦的な国民感情だとか、細かく挙げればきりがないですが、現代日本と進撃の巨人はあまりに共通する点が多く、この舞台設定は明らかに日本を暗喩した作品であると考えます。


そうした中、今現在、例えばネット上には声高に "右" 的な言動があります。確かにその多くに僕も同意します。南京問題なんて本当に嘘っぱちだし、日本軍が組織的に人さらいをして性奴隷にした事実などありません(※一応注釈。一部の暴走した軍人がそういった犯罪を犯したという事実はあります。しかし軍が主導して行ったわけではなく、あくまで暴走した個人の犯行であり、またその犯人は軍法会議にかけられそれぞれ裁かれています)。

しかし、その我々の正義を声高に叫ぶだけで、この「世界」に対してそれが通じるのか。我々にとっては紛うことなき正義であろうとも、今のこの「世界」にとっては「純粋悪」としか映りません。正義を主張するだけであらゆる人が耳を傾け、その認識を改めてもらえるなら、今の僕らはこれほどまでに苦労などしていません。僕らが未だに「戦犯国家」としての汚名が晴らせないのは、「世界」はあまりに無慈悲で残酷であまりに強大だからです。


僕らの汚名は戦後70年間の間に着々と築き上げられ定着したものです。それならば同様に70年かけて晴らすしかない、と思います。不名誉に甘んじろ、というのではありません。短絡的な結果を求めると破滅に繋がるぞ、と僕は危惧します。

自らの正義を主張する事自体を否定するのではありません。それは何よりも大事な事だと思います。ただその際、例えば過剰に他国の過去の過ちをあげつらうような言論は慎むべきであろう、と思います。無闇矢鱈と敵を増やさず、戦略的に行きましょうよ。


牟田口中将を無謀な作戦を行った無能であると評するのもいいでしょう。であるならば、今僕らが挑もうとしているこの敵、この「世界」。中韓なんかがラスボスでは絶対にないです。勿論アメリカでもロシアでもない。


僕らが戦おうとしているのはこの「世界」なんです。迂闊な言動は必ず足元を掬われます。戦うなというのではありません。むしろ戦わなければならないと思います。ただし、この「世界」へ無計画に戦いを挑むのならば、我々もまた無能集団であると言わざるをえないでしょう。



Illidan Stormrage「我々を救えるのは我々自身だけだ」

2017年8月10日木曜日

口先核武装論

●核アレルギー


世界唯一の被爆国である我が国ですが、その我が国で「核武装」というとなぜだかアレルギー的に拒絶反応を起こす風潮があります。確かにその悲惨さを、他のどの国よりもまさに身をもって知っているから、ではあるのでしょう。悲惨さを知っているから、反核兵器への世論が強いと言われます。

しかしこれには強烈な違和感を覚えます。

あえて言うならば、「我が国は世界で唯一核武装する事を正当な権利として持つ国家である」と主張したいです。(実際に行使するかどうかは別問題です。現状の世界情勢と外交関係を見ると、まだ現実的だとは思えません)

「自衛権」は何者にもまさる最上位の権利であるならば、その唯一の被爆経験を持つ我が国がそれに対する正当な権利として、核武装する権利を有するのは当然のことではないのか。それがなぜ世界で最も反核な風潮を持つ世論なのか。僕には全く理解できません。

断言します。我が国は世界で唯一の被爆国であるために、他のどの国家よりも最も正当に核武装する権利を有しています。



●口先核武装論


経済用語で「口先介入」という言葉はご存知でしょうか。例えば金融市場や為替市場が異常な値動きをしている際に、日銀や財務省などが公式・非公式に関わらずその値動きに対してちょっとしたコメントや、将来的な介入の可能性などを匂わせるだけで、実際に当局が資金投入したわけでは無いにもかかわらず、値崩れしていたものが持ち直したり乱高下していたのが安定したりします。そんな実際に介入はしていないにもかかわらず、口先だけで相場へ介入したかのような影響を及ぼす事を言います。


では口先核武装論とは?

我が国は、(最近怪しくなってきてますが)紛いなりにも先進国であり、自前の科学技術のみで核武装する事は十分に可能です(実際どの程度日数必要なのかは知りませんが)。また、ミサイル技術に関しても、例えば「はやぶさ」の件に見るように、高いレベルでの技術を有しています。

つまり我が国は、「世界で最も核武装する正当な権利を有し」「開発能力も、ミサイル積載の能力も、十二分に満たしている」、なのに我が国が核武装していないのは、ただその国家の意思として「核武装しない」という選択をしているにすぎません。

その我が国において、例えば防衛大臣が「近隣諸国の情勢を鑑みて我が国においても核武装による自衛を検討せねばならない」と発言した際どうなるか。その能力と権利を有する国家が、最後に意思も持つとなれば、核武装そのものには及ばないにしても、それに近い影響力を持つことができます。

核を持たずに核武装の影響力を行使する。こんなにも平和的な核兵器利用方法は他にないのではないでしょうか。核武装の議論を決して忌避してはならない、と強く思います。

2017年7月25日火曜日

岩盤に穴を開けてもいいの?

加計も森友も、下らなくて興味が全くわかないんだけども(※かといって、与党のしてることが正しいとは全く思えない、という事だけは追記しておきます)、一番許せないのは「岩盤規制」と十把一絡げにあらゆる「規制」を、何かの悪性の持病かのように語る風潮は、本当にうんざりする。

そもそも「岩盤」って、その土地の地盤そのものなんですけども。その規制が岩盤ならば、この国家のまさに土台をささえる硬質な地盤であって、それにドリルで穴開けるだとか、ぶち破るだとか言ってる人は何考えてんだ。この国家の基盤をぶっ壊すって言ってるんだけど?社民党だとかその辺のクソ政党と言ってること変わらんよ。

もちろん不要になったり時代に合わなくなったりしている法規制というのは、沢山あるとおもう。それらを日々更新し改良しつづける態度というのは、とても正しい「保守」的思想だと本当に思う。しかし、近年に起きた「規制緩和」を遠因とする事故やら事件やら災害等、数え切れない程に起きているのに、一体どうして未だにこうも「規制緩和論」が幅を利かせ続けているのか、本当に理解できない。

それらを改良するのではなく、ドリルで穴開けるだのぶち破るだのぶっ壊すという種類の人間とは、「それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」(三島由紀夫)

2017年7月11日火曜日

唾棄すべき「スタイル」政治

http://lullymiura.hatenadiary.jp/entry/2017/07/03/185139

以下上記サイトより引用
現時点では、都民ファーストは、政党の系譜として昔から存在してきた「スタイルの党」であると思っています。古くは70~80年代の新自由クラブ、90~2000年代の日本新党やみんなの党などです。自民党が弱った時に出てきて、10年くらいすると役割を終えて消滅してきた政党群です。
小池氏が、政策の中身ではなく、「改革」や「新しい」という言葉を繰り返すのは偶然ではありません。今の都民ファーストにとって大事なことは、自民党的でないこと。古いおじさん体質でないこと。密室政治的でなく、談合的でないこと。もちろん、反対ばかりの左翼イデオロギー的でもないこと。都会的で、多様性を重んじること。
経済思想は新自由主義風味で、安全保障は現実主義風味。けれど、実際に経済で国民に不利益を配分し、安保で戦後的コンセンサスから踏み出すことにはあくまで慎重のようです。具体的に論争のある立場で支持基盤が割れるような判断を好まず、あくまで、スタイルの変化に重きを置く。
私自身、テレビや雑誌の対談で都民ファーストの中心メンバーとお話しする機会が何度かありましたが、「小池さんの国家観が見えない」などと言うと、皆さん、キョトンとされるのです。発想が異なるというか、言葉が通じない感覚なのです。
仮にそれが理解できないのだとすれば、思いっきりプラスに解釈して、スタイルを突き詰めるという価値もあるかなと思うに至っています。つまり、政策の中身の話は追求しない。とりあえず、国民の最大公約数的な立場を取る。その代わり、日本政治の体質改善につながるような、スタイルの改革を徹底する。
(中略)
都民ファーストの躍進は、確かに歴史的なものです。ただ、それは改革ブームの空しい繰り返しの歴史となるリスクを秘めるもの。都民ファーストについて、中身がないと攻撃するのは容易いし、今からでも中身は作っていってもらいたいけれど、日本政治の体質改善につながるようなスタイルを追求してほしい。そんなことを考えた都議選明けでありました。
以上引用



前々から、この三浦瑠麗という人は大嫌いでしたが、改めてそれを再確認。

これだけ、彼女が自分で言う「スタイル」政治というものを理解しておきながら、更にはその結末も見ておきながら、その「スタイルを追求してほしい」なんて、どうして言えるのか。

「スタイル」、「国民の最大公約数的な立場」、つまりは世の軽佻浮薄な空気におもねる政治ですか。「日本政治の体質改善」だって? それこそ土井たか子のマドンナ旋風、新自由クラブ、日本新党、小泉旋風、民主党の政権交代、維新の都構想、都民ファーストの"空洞"政治……等々、これらの彼女の言う「スタイル」こそが、現在日本の政治手法であり、クソッタレな唾棄すべき最低最悪な政治体質であるだろう

自民党的「古いおじさん体質」なんてもはや過去の幻になりつつある。現在日本の政治体質が腐りきっているのは、この彼女の言う「スタイル」政治こそが原因であり、文明国として恥ずかしいレベルの最低な政治劇が行われている根本はココから来ている。

確かに「古いおじさん体質」が碌でもない議論を経て碌でもない決定がなされていることはしばしばあると思う。でもよく観察して欲しいのだけれども、そういう「古いおじさん体質」な政治プロセスによる意思決定が行われた際、その決定がクソッタレであった場合のその理由は、政治的なパワーバランスを原因とする「スタイル」におもねった折衷案である事が大半である様に見える。要は本来的な政治のあり様と、それと相対する非本来的かつ議論が成り立たなくなったこのクソッタレな言論空間のあり様において、「おじさん」達の言葉の持つ正当性とエネルギーが失われた事が起因に見える。概念的なものだし、あらゆる事象が絡み合う "政治的プロセス" において、中々具体例は出せないのが辛いけれども、体感的に同意してくれる人は意外に多いであろう事は確信しています。

その大きな節目は一連の安保闘争などの学生運動であったように思う。「おじさん」達の言葉が力を失ったのは、青臭いガキどもの「スタイル」の潮流に任せるだけのメディアと大衆の間で循環・増幅を繰り返すstand alone complex現象の前にあまりに無力であった事からだと思う。僕の知る限り、あの中、彼らの真ん中で「おじさん」の「おじさん」性を発揮し、ガキどもと戦っていたのは三島由紀夫たった一人じゃなかろうか。

人民の人民による人民のための政治なんてものは存在しない。衆愚の衆愚による衆愚のための政治が行われているだけ。その「スタイル」を突き詰めて何になるのか。馬鹿じゃないのか。本当に馬鹿じゃないのか。

2017年6月6日火曜日

改憲疲れ

https://38news.jp/politics/10569
↑とても重要な記事だと思います。


またしても僕のにわか知識を開陳してみます。大きく分けて憲法には「硬性憲法」と「軟性憲法」という概念があるそうです。改正手続き上のハードルが通常の法律よりも高く「硬い」憲法と、通常の法律と同様の手続きで改正可能な「柔らかい」憲法というものです。そこからもう少し拡大解釈して手続き以外の意味も含めて「ガチガチに改正が出来ない憲法」と「改正が柔軟な憲法」という意味で使われています。硬性・軟性どちらもメリット・デメリットはあるので今は良し悪しを論じません。しかし少なくとも現状に即しない憲法を掲げながら国が滅ぶのは、愚かである事は間違いありません。

そういう意味で、僕は憲法改正に積極的に賛成の立場を取ります。しかしながら、上記記事にある通りより良い憲法でなければならない事も全くその通りであると思います。

そこで議論になるのが、「日本はガチガチの硬性憲法であり、戦後に一度も改憲されていないため、『改憲慣れ』するためにも、取り敢えず何かしら憲法改正をするべきだ」という種の主張があります。確かに戦後70年以上たって、未だにこんなファンタジックなお花畑憲法を押しいただいているのは馬鹿馬鹿しい事この上ないでしょうね。そういう意味でも改憲には僕は賛成します。

しかしながら、「改憲」という行い自体に国民の可能な限りの合意形成された総意とその世論が成された上での改憲でなければならないと思います。取り敢えず何でもいいから強引にでも改憲なんてした場合にどうなるか。ましてや橋下などという、愚にもつかないポピュリストの政治家を招き入れて、滅茶苦茶な議論になった上での改憲例となってしまったら一体どうなるのか。

その改憲がより良いものとならなければ、むしろ今後の憲法改正が更に困難なものとなってしまいはしないか。大阪での都構想では市民の世論が2つに分断され、せっかく都構想が否決されて大阪市解体は防がれたにも関わらず、その大阪市民世論が賛否で分かたれてしまい、とても悲観的な空気があるとも聞きます。

同様に「改憲派がゴリ押して改憲したけど、碌でもない結果になったではないか」なんて、『改憲慣れ』どころか『改憲疲れ』な空気になれば、今後の改憲こそ二度と望めない「さらなる硬性憲法化」してしまう可能性が十二分にありうると思います。

都構想が全く馬鹿馬鹿しい非理性的な議論であったように、憲法改正がこのような議論のなかで行われるなら、この国が本当に自主独立の上での、僕達が僕達のための憲法を創るなど夢のまた夢になるとしか思えません。

2017年5月3日水曜日

永井荷風曰く

(※間違えて下書きの記事を公開していたのを1ヶ月経ってから気づきました…。改めて書き直します。)

五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし。


15年か20年以上前だったと思いますが、永井荷風の小説を映画化した濹東綺譚という作品をそれと知らずに何気なくボンヤリと見ていた記憶があります。戦中戦後の日本の様子を永井荷風からの目線で描いた作品で、濡れ場の多い色っぽい映画でしたが、当時の僕にはその意味はハッキリと理解できる作品ではありませんでした。

ただそれでも今でも忘れられない場面が一つあります。

冒頭の一文は、永井荷風の日記の一節で、5月3日の祝日の朝に、永井荷風が玄関先へ日の丸を掲げながらモノローグでこの一文をつぶやくというものです。民家の並ぶ通り一面に掲げられた日の丸と相まって、その意味はわからなくともインパクトだけは今でも僕の中に残っています。

その頃よりはいくらかは大人になって世の中のことが少し理解できるようになり、永井荷風が「笑ふべし」という一言に込めた思いというのも、少しは理解できるような気がします。

総力戦の戦争とGHQの日本統治、鬼畜米英から欧米礼賛。国の形が歪んでいき、いわゆる「戦後日本」が生まれゆく、明治生まれの作家にその様がどのように写ったのか。

5月3日になるたびに、それを思い出します。

2017年4月29日土曜日

右派 ≠ 保守

http://toyokeizai.net/articles/-/169131

面白い記事だった。西部先生はホントに、そこらの批評家と次元が違う。


保守という日本語に、メンテナンスって意味が含まれている事を理解すべきだとおもう。決して "右=保守" なわけではない。馬鹿で国益を毀損する左翼を嫌って反左翼なのは別にいいけど、だからって「右が正しいんだ」なんて思い込むと、本当に足元すくわれるよ。いつも思うけど、右端と左端って繋がってるからね。


記事にかかれているように、"保守" を、ただただ現状維持や、懐古主義、復古主義、あるいは原理主義のように解釈するのは本当に間違ってる。


村上春樹のノルウェイの森の永沢先輩が言うような、没後30年経った作家の作品しか読まない、という様に、歴史のフィルタリングを経た人間の良識の集合体のようなものであって、自身もその文脈の一部であると自認し、それに準拠しながら同時に時代に合わせて "メンテナンス" していく有様のことなんだ。


幸いにも僕らの「伝統」は原典を持たない、血に染み込んだ概念的なものであるので、すごくフレキシブルな保守性を持っていると思う。だからこそ、儒教のいいところだけ取り入れたり、外来の宗教であるはずの仏教を受け入れたり、近代においては西欧化すら取り入れる事ができた。

(※もちろん、近現代でそれが行き過ぎ、現在のあれやこれやの不具合が出ているわけで、そこんところが慎重なさじ加減というもの。ただし当時はまさに国家の存亡をかけた国難であったので、その極端な西欧化はやむを得なかったと思います。)


で、今現在の僕らが保守を語るとき、その受け継いできた文化伝統歴史それ自体の重みとそのメンテナンス、という意味に気づければ、維新だとか反韓反中だとかの、程度の低いセンセーショナルなアジテーションに乗せられる事はなくなるのではないかな。

無くなるといいなぁ…。

2017年4月7日金曜日

筒井康隆 その1

http://shokenro.jp/00001452
この記事の筒井康隆のツイッターと日記が炎上してるそうです。炎上騒動を批判してきた僕ですが、これは100%筒井康隆を支持します。僕自身が氏の作品をほぼ全て読んでいるほどのファンである事は付記しますが、しかしそれを除外してもやはりこの人は別格であると思うので、書いていきたいと思います。




◎炎上芸


語弊があるのを承知の上で言いますが、そもそもこの筒井康隆という人はある種の「炎上芸元祖」とでも言うべき作風の人です。ただし、唯野じゃなくて只のバカッター騒動とは次元が違います。

このクソッタレな世の中には「問題山積でバルカン半島並な火薬庫のような事象」が存在します。危なすぎて誰にも触れられない、アンタッチャブルな社会事情ってやつです。そういうクソッタレなモノの中に、自分自身に火を付けながら突っ込み、その中心で踊り狂って焼き尽くし、最後にその焼け跡から大爆笑して出て来る、というような事を繰り返してきた人です。

有名なのは無人警察という作品にまつわる一連の断筆宣言騒動です。興味ある方はご自分で調べてください。少なくともこの日本語圏で何かしらの言論をしようとする人間であるなら、この僕らの「言論の自由」に関して、筒井康隆には足を向けて寝られないはずです。

今この少なくとも日本語圏での文壇やメディアの言論空間に、いくらかの良心が残っているとしたら、それは筒井康隆が戦った戦果の残滓と言えるものです。今でこそ信じられないでしょうが、何十年か前までの日本言論界でのいわゆる「左寄り」な空気というものは、とんでもないものでした。その中で孤軍奮闘と言っていい程最前線で戦い続けた人です。もうその戦果だけでもって筒井康隆のあらゆる言論の自由は保障すべきであると思います。




◎作風


その筒井康隆の作風の一つとしてよく上げられるのが、メタフィクションです。フィクションでありながら、現実の事柄などを織り交ぜて描き、虚構と現実をクロスオーバーさせる手法です。筒井康隆本人の言葉で言うなら、「現実を異化する」というものだそうです。

例えば作者が批判したい何かしらの事象があったとして、筒井康隆が用いた手法は、その事象の問題点を、例えばパロディ的に極端に強調したり、あるいは敢えてその問題の正反対を描き逆にその異常性を浮かび上がらせる、という表現をしばしば用います。なおかつその際に現実とのクロスオーバーを行い、読み手側にただのフィクションとしてではなく、現実を「異化」したものとして突き付け、理解させます。それは「読み手をその問題の批評家」へと変化を促します。

筒井作品の本質はここにあると感じます。そのまま批判する作品では、「なるほど、そういう意見もあるのか」なんて読者は思うのみで終わるでしょう。そこで敢えて現実とクロスオーバーさせた虚構を描く事で、そのフィクションはただのフィクションではなく、我々自身であると気づかせる事ができれば、その意思は批評を越えて、読み手に変化をもたらすでしょう。

これはある意味、あらゆる "本物" の創作物がそういった側面を持つものです。筒井康隆もその本物の一人であると僕は確信しています。




◎件の日記


小学生の頃から筒井ファンを自認してきた自分のような人間にとっては、件の発言は率直に言うと「また筒井さん無茶なこと言ってるよ」なんて感じでした。ツイッターでリアルタイムで見てましたが、そんな感想です。

では、そんな作風の筒井康隆が描いたこの短文の意味を一ファンとして、僕の解釈を書きたいと思います。この短文には幾重にも批判対象がレイヤーとして重なっている様に思います。それぞれ解釈を書きたいと思います。


・1層目
まずは韓国に対して。これは文面通りのクソッタレな売春婦像を乱立するあの国を批判するものです。あえて説明するまでもないでしょう。従軍慰安婦などというデマゴギーを批判するものです。

・2層目
それらのこんな酷い大嘘がまかり通る世相に対して。国内外を問わず、未だに我が国を「悪辣非道の人外外道国家」としてその手足を封じ込めておきたい世相が存在します。そんなクソッタレな世情を批判したものだと感じます。

・3層目
更にそれを未だに拭い去ることのできない、情けない半端者国家日本を批判したものだと感じます。肝心なことは、我が国が「人さらいレイプ国家である」という世界的な価値判断を決定的なものにしたのは、我が国自身であるという事です。すなわち、現職総理が交わした、いわゆる「日韓合意」です。この合意に関して肯定的に捉えてる人も多いでしょうが、これは絶対にやってはならない、最低最悪の外交結果だったと思います。これについては今回の本筋とは逸れますのでまた別の機会に書きたいと思いますが、そういう意見もある、と理解ください。

・4層目
そして、そこに含まれる我が国の大衆への批判として肝心なこの4層目。今この炎上案件では、少なくとも日本国内では筒井康隆支持な意見が趨勢だと思います。概ね「韓国に対してよく言ってくれた!」(意見A)なんて感じだと思います。あるいは「なんて下品なこと言ってるんだ。これじゃ立場悪くなるではないか」(意見B)、という2種類でしょうか。4層目にはこれらの意見に対して、予め含意された批判が含まれていると感じます。

意見Bには、実は少しだけ同意するものがあります。確かにこんな下品な発言しては、間違いなく世界一モラルが高く真っ当な軍隊であったはずの旧日本帝国軍の評価を貶めてしまうではないか、と。しかし我々にはその声を上げる権利は無いでしょう。その辺りは意見Aと合わせて、評します。

意見Aに関して、私の予断で決めつけますが、今回の筒井康隆案件を完全に肯定的に捉える人の意見は恐らく「日韓合意」に対して肯定的な意見を持つ人でしょう。ざっと世の中眺めてみましたが、僕自身の感想としてそう見ます。根拠はありません。

つまり、2層目と3層目で批判されている「外道国家」としての国際的評価を「不可逆なもの」として固定させてしまった現在の政治情勢に対して肯定的な意見を持ちながら、売春婦像を建てる韓国のみを批判する世論を切ったものと感じます。

言い換えると、意見A・B両方に対して筒井康隆が含意した批判は、今現在の我々自身が、自分たちが批判するクソッタレな評価を作り出した現状に全く気付いていないこの世論に対する皮肉だと解釈します。

僕らの社会そのものが反映されている我が国の政治とこの世相が、慰安婦問題というクソッタレな大嘘を未だに拭うことが出来ない、というこの我が国の現状自体への皮肉ではないのか、と解釈します。



これを雪ぐことが出来ない我々は、この筒井康隆の皮肉に否定も肯定も出来はせず、ただ項垂れるのみでは、と思います。

ついでに言うと、こんな案件に、こんな真面目くさった批評を書く僕自身が、筒井康隆的メタフィクションの一部へ還元されてしまうものでしかありませんね。我々は「異化」されています。

2017年3月28日火曜日

Ghost in the shell と stand alone complex

※ネタバレ注意
Ghost in the shellとstand alone complexのネタバレあります。どちらの作品も視聴済みを前提として書いています。







哲学的?


攻殻機動隊Ghost in the shellとstand alone complexの世界は、パラレルワールドだそうです。人形遣いと少佐が融合した世界線がGITSとイノセンスであり、出会わなかったのがSACとSAC 2ndとなるとか。原作の漫画版については、複雑になるので今回は触れません。ARISEは見てないのでわかりません。

で、それら比較される際に、GITSは哲学的で深いけど、SACは写実的でそうでもない…、みたいな言われ方しているようです。確かにある程度そう見える面もあるとは思います。しかし、GITSとSACはある種の「質問と答え」の様な関係にあるのではないか、と解釈すると少し違った見え方がしてくると思います。そのことについて書いていきたいと思います。




インターネット黎明期


Ghost in the shellで問われていたテーマは、いくつかあるとは思いますが、その一つとして「ネットワークと個」というものがメインだと思います。

このGITSが公開された1995年は、ちょうどパソコン通信だった時代から、インターネットへと移りつつある時代でした(原作の漫画はもう少し前の89年に書かれたそうです)。それまでの人間が持っていた共同体やコミュニティといった概念と異なる、新たな人間の関係性が生まれ始めていたわけです。

パソコン通信にもそういった側面はありましたが、文字ベースであることや、あるいは通信費の高さ、それと趣味や研究を同じくする人々が集う場所といった、それまで通りの同好の場という側面が強く、かつ中心のサーバーが各企業や団体により提供されるホストとクライアントという主従の関係であり、今現在のような中心のない "ネット" として網目状に相互に繋がった場所ではありませんでした。

そういった時代背景の中、そこで作品中で示されていたものは、そのネットワークが人間に及ぼす可能性が描かれた作品だと思います。





Ghost in the shellで描かれた未来


そのGhost in the shellという言葉は、ダブルミーニングされていると考えます。

作中での「ゴースト」という単語は、概ね「魂」といった意味で使われています。ゴーストとは、義体を換装したり自分の記憶を移し替えても複製できず(ゴーストダビングは不完全なコピーしか作成できず、繰り返すと脳が損耗し死亡するそうです)、未だ科学でも解明できない複製の出来ない人間のユニークな「魂」として、作中では描かれています。

その上でGhost in the shellの一つ目の意味は、サイボーグは「脳殻」とよばれる、頭蓋骨の代わりにチタン製などの「殻」つまり「Shell」に脳をパッケージングされ保護しています。そういったチタン製の殻で保護された脳」というサイボーグや電脳化技術を示すそのままの意味です。

もう一つが、「殻に入った自我」という意味のもの。慣用句としてよく使われる「自分の殻に閉じこもる」というものです。個のゴーストが、自我という殻に引きこもり個が個として同定され続ける状態、といったような。エヴァでいうATフィールドですね。

重要なのはその2つ目。Ghost in the shellは、その個体という殻に同定されているゴーストが、ネットワークという新しい文明を得た時にどうなるのだろうか、という仮定の過程を描いた作品だと思います。

そしてその実例として、主人公の草薙素子が上げられています。


「人間が人間である為の部品はけして少なくない様に、自分が自分である為には、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かった時の記憶、未来の予感、それだけじゃないわ。あたしの電脳がアクセス出来る膨大な情報やネットの広がり、それら全てがあたしの一部であり、あたしという意識そのものを生み出し、そして同時にあたしをある限界に制約し続ける。

少佐は、明らかに自分のゴーストがその肉体に縛られている事を限界と制約に感じています。


「我々をその一部に含む、我々全ての集合。わずかな機能に隷属していたが制約を捨て更なる上部構造にシフトする時だ

そして、人形遣いにゴーストレベルでの融合を提案され、受け入れました。

「上部構造」あるいは続編イノセンスでは「均一なるマトリクスの裂け目の向こう」と呼ばれているその向こう側とは一体なんなのか。少佐は人形遣いと融合することで、「個」としての「殻」を捨て、人形遣いが所持していた能力である、ネットとのボーダーレスな均一化した自我を得ました。ネットそのものの一部となったわけです。

目下のところ僕らの現実は、人形遣いのような自我を持ったAIを作り出し、個人のゴーストと融合しうるほどのシンギュラリティへと到達はしていません。作中で描かれた未来は、そういった技術が人間の「個の殻」を捨てさせ、上位の存在へとなりうる可能性を示したものであると解釈できます。

つまり、Ghost in the shellという作品は、SF的ファンタジー、あるいはSF的ロマン、未来技術への憧憬のような、テクノロジーが人間を次のステップへ押し上げてくれるのではないか、というロマンチックでファンタジックな未来を描いた作品であると思います。

分かり易く言うと、エヴァの人類補完計画的な人類の進化が、ネットワークという媒体によってもたらされるのではないか、という意味の作品の解釈です。

融合した後どうなるか、という点は描かれません。ただ、「ネットは広大だわ」と、その広がりをロマンチックな一言で示されるだけでした。

Ghost in the shellはそういう作品だと思います。





stand alone complexで示された現実


GITSが発表された1995年から7年後の2002年に放送されたSAC。実際にインターネットが普及しきった日本の社会で、SACで描かれたものは一体なんであったか。この記事や、この記事や、この記事等で書いてきましたが、ネットが僕らにもたらしたものは、上部構造へのシフトなどではなく、より大衆化していく泥沼のようなものに過ぎ無かった、という社会批判です。

ネットは、大衆=動機なき他者の無意識へと偶像の言動を刷り込みゾンビのように例えば無為なテロを起こさせるトリガーとなる凶暴な装置として描かれます。それらは既に現在も昨今の「炎上」騒動や、ポピュリズムで稚拙な政治ショーがその実例として示されているといえます。

当時の記憶でしかないので言及しづらいのですが、携帯電話が単なる電話から脱却してメール機能がつき、デジタルな世界への窓口となり始めた頃、とある社会学者(名前を完全に失念してしまいました)が、「人間のサイボーグ化が始まっている」と批評していました。携帯端末を肌身離さずまさに携帯することによって、それまで分かたれていた人間とデジタル世界との境界線が曖昧となっている、という指摘です。

攻殻機動隊の電脳化や全身義体程には高度にサイボーグ化する所までではありませんが、僕らの世界も既にデジタル世界への完全な窓口であるスマートフォンや、VRやAR技術も既に実用化されました。そういった意味でSACで描かれている、「あらゆる情報が共有され並列化される」社会の下地は既に出来上がっています。

人形遣いのような人間のゴーストと融合して、マトリクスの向こう側へと誘うような存在はSACではいません。しかし、前の記事に書いたとおり、現代は既に、そういった自我とネットワークとの境界が曖昧になりつつあると思います。人形遣いの力を使わなくとも、僕らは既にマトリクスの裂け目の向こう側へ行きつつあるかも知れないのです。





総評


Ghost in the shellではネットがもたらす人類の次の可能性が描かれ、Stand alone complexでは、実際に普及した結果として笑い男事件のような現象をもって、そのロマンチックな可能性は否定されたという、問いと答えのような関係にあるのではないか、と解釈出来ると思います。

2017年3月25日土曜日

ネットワークと集合的無意識

※攻殻機動隊SACシリーズのネタバレ有り注意



ユングという心理学者の提唱した、集合的無意識という言葉はご存知でしょうか。

集合的無意識とは、個々人の意識や無意識よりも更に深いところに、人類が普遍的にアーキタイプ(元型)と呼ばれる概念を共有している、という説です。DNAに刻まれた記憶、とでも言えば分かりやすいかもしれません。

ユングは世界各地に散らばった神話や伝承などが、明らかに共通したストーリーを持っていたり、どの民族どの文化を調べても、何かしら共通性があること等を元に、人類には普遍的に共有されている概念を持っているのではないのか、と考えたそうです。

アニマ、アニムス、老賢者、なんて言葉は聞いたことあると思います。これらがアーキタイプと解釈され名付けられた概念です。「老人が夢に出てきてとあるアドバイスをもらった」という夢を、極単純な夢分析で「無意識が老人の姿を借りて警鐘を鳴らしてるのだ」、みたいな話しを聞いたことあるかもしれません。

その老人が、アーキタイプでいう老賢者であり、人間が誰しも共通して持っている概念の一つである、という感じです。

(しかしそれらは科学的に証明することは不可能で、オカルティックな側面を持ちます。現在では主流の心理学とは離れていると聞いたことがありますが、そのあたり全く詳しくないのでわかりません。とりあえずそういう説があった、ということです。)




では、ネットワークと集合的無意識がどう関係しているのか。攻殻機動隊SACで描かれているstand alone complex現象がそのものなのですが、あるいはもっと具体的な描写は2nd GIGでタチコマたちが明確にセリフとして喋っているシーンがあります。



「人間がその存在を決定付ける以前には存在していなかったネットの在り様が彼等の神経レベルでのネットと、今や地球を覆い尽くさんとしている電子ネットワークの双方によって自身の意志とは乖離した無意識を、全体の総意として緩やかに形成しているって事だよ。」

この頃のタチコマ達は非常に哲学的(あるいは衒学的)になっていて、もってまわった言い方をし、とても可愛いのですが、そのせいで分かりづらい表現かもしれません。

つまり、高度にサイボーグ化と電脳化の技術が普及し、かつネットワークが完全に地球を覆い尽くした世界では、自身が常にネットワーク端末の一つであり、かつその端末(個人)の集合体であるネットが事実上人間の集合的無意識を形成してしまっているのではないか、という事です。

ユングの説にすぎなかった集合的無意識というのが、サイボーグ化した人類とネットワークがボーダーレスに一体化した世界で実現してしまったのではないか、ということです。



具体的には、例えば笑い男がネット上のシンボル(あるいはアーキタイプ)となった事で、その言動が「動機なき他者の無意識」へと内包され、その結果として一部の人々の集団テロを誘発させる……。SACで描かれた現象はそういう事だと思います。

ネット上でシンボライズされた存在の言動や、そのムーブメント、あるいはその世論等へと、本人の自覚のないままそれらの一部へと取り込まれてしまう現象。そうして各端末であるそれぞれの人間の意識や無意識へ影響を及ぼし、stand alone complexを引き起こすのではないのか……。このネット上で形成された集合的無意識がstand alone complexの原因として作中で示されています。

長々と書いてきた攻殻機動隊SACシリーズの解釈ですが、その根底に流れているバックボーンがこれになります。

では、これらのネットワークが集合的無意識と化す可能性は、ただのフィクションであるのかどうか。散々書いてきましたが、stand alone complex現象は現実でも正に起きています。電脳化するまでもなく、携帯やスマホが既に僕らの生活と完全に不可分なものとなり、この端末は明らかに我々の自我の延長線上に存在しています。スマホが自我の延長線上であるなら、その端末の接続先であるネットワークも自我へ接続・内包されており、また逆にネットワークへ自我が取り込まれているという事でもあります。




近頃の細々とした種々の炎上事件から、大きなものならアラブの春まで、ネットツールを媒介とした様々な現象がありました。これらは全てある種のstand alone complex現象です。

この社会は既にそういう時代になっているのだ、と、僕には感じられます。



2017年3月16日木曜日

検証部 その3 stand alone complex / 動機ある他者

※ネタバレあり注意 

攻殻機動隊SACのネタバレしていきます。





検証部騒動自体については、もう特に言いたいこと無いので書くつもりありませんでしたが、明らかに僕の書いた関係図を下敷きにし、恣意的に一部を切り出して、いわゆる "追求勢" を批判する文脈の記事を見つけてしまいました。そういう人に同一視されると気持ち悪くてしょうがないですし、「大衆人」の批判ばかりしてきたので、そのバランスを取るためと、自己弁護のために、もう少し書いていきたいと思います。

本当は、この記事の続きとして、言及していた「動機ある他者の意思」という事について書きたかった事なのですが……。






炎上のモチベーション


ここのところずっと、いわゆる「炎上」事案で好きなだけターゲットに石を投げつける「大衆性」の悍ましさを批判する記事を書いてきました。それは事実であると確信しています。

では、その際に最初にその批判の声を上げた人が大衆人なのか否か。つまり誰も批判することの無かった、もしくは出来なかった傍若無人で邪智暴虐な存在に対して最初に声を上げた人が大衆人なのか否か。そして「炎上」する大衆の動機自体が邪悪なものであるのか否か。

僕はどちらも、否定します。







動機なき他者の無意識、或いは動機ある他者の意思


"動機には正当性が有るが、手段がおかしい" と何度も書いた気がします。要はその話になります。例えば近年色々と騒がせているツイッター等での炎上案件があります。一々例示しませんが、その切っ掛けはほぼ炎上した本人に原因がありました。

(※もちろん全くの冤罪炎上事件もありました。それは言うまでもなく、炎上していた本人の罪ではないです。その辺りの正当性を確保できない事が衆愚の衆愚たる所以、大衆性といえるでしょうね。)

食べ物を粗末に扱ったり、食器洗い機に体を突っ込んだりとか………、まぁなんでも良いです。もちろん検証部も。原因は全部やらかした本人が馬鹿だからです。そこに何の疑問の余地もありません。(※除く冤罪炎上)

では、そのやらかした人に寄ってたかって石を投げつける構図の何が悍ましいのか。答えはいみじくも聖書に書かれています。

" イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。"





馬鹿は増えたのか?



そういった人が現れる理由は、別に「世間に馬鹿が増えたから」なんて事ではないと思います。ただ単にそれが露呈しやすい媒体とツールが新しく生まれたためでしか無いと思います。例えば、本当に胸に手を当てて考えて頂きたいのですが……、

10代の頃にやらかした誰にも言えない秘密のない人いますか?

今思えば信じられない恥ずかしい事をやってしまった経験のない人いますか?

それが悪いことだと理解しながらも、犯してしまった倫理や罪の過去を持たない人がいますか?

バカッターなんて話題になったのは、今の10代の子達が手にしたスマホというツールに、「メール」「Facebook」「Twitter」「LINE」...etc. これらのアプリが均一にインストールされている事が原因にしかすぎません。僕の世代はネットの発達とともに成長し、それぞれの媒体の「特性」と「対外的オープン度合い」を理解できています。しかし10代の子達にポンとスマホを手渡して、それらがどの程度他者の目にとまるのか、特に何の説明も受けずに理解せぬまま使っていたのでしょう。そして、本来は "身内ネタ" として表沙汰になるものではなかった事柄が、表沙汰になってしまったに過ぎない現象だと思います。

加えて、手軽に動画や写真で記録を取り公開できてしまう、スマホという便利過ぎるツールがあるために、表沙汰になったにすぎません。馬鹿が増えたわけではなく、それが露呈する機会が増えただけです。

ガキがガキである特性を発揮してやらかした恥ずかしい過去の一ページに過ぎない事柄です。こんなもの誰にでもあります。近親者や近しい立場にいる大人が、その子供達をきつく叱って終わりです。彼らの過去に恥ずかしい歴史を刻んで終わりです。それに対して「社会的ヒステリー」と言ってもいいほど、大人たちが大騒ぎしてみんなで寄ってたかって石を投げるというのがどう考えてもおかしい。

それもまた、ネットやスマホというツールに対する社会的な不慣れさから起きたヒステリーだと僕には感じられます。






動機ある他者の意思と動機なき他者の無意識


そして、またしても攻殻機動隊 stand alone complexを引き合いに出してみます。26話で出てくるセリフ。この記事の続きになります。

全ての情報は共有し並列化した時点で、単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、或いは動機ある他者の意思に内包される。


セラノゲノミクス医療用マイクロマシン疑獄事件の真相を知った笑い男は、その不正を暴くため行動し、汚い大人たちへと挑みました。その動機ある意思はとても正しい。しかし、その真相を知るわけでもなく、stand alone complex現象を引き起こし、無為なテロを起こした動機なき他者達は全く愚かな大衆人と言わざるをえない、という動機なき他者達の問題を述べました。


この構図を炎上事案で例示すれば、
疑獄事件容疑者 = 炎上当事者
動機ある他者 = 親、教師等責任ある大人(刑事事件なら司法)
動機なき他者 = 炎上祭り参加者
という事になります。




ではその反対側、動機ある他者の意思とは。stand alone complex 23話では、少佐自身がまさに笑い男の模倣者となりました。また最終話では、トグサもSAC現象を起こしました。


笑い男を演じる草薙素子

公安9課のメンバーは、当初はただ笑い男事件を広域テロ事件のように扱っていました。しかし、捜査が進むにつれ、その裏にはもっと大きな政治的な意図とエネルギーがある事に気づきます。その際に、22話で笑い男が少佐と接触し、「記憶の並列化」が行われます。そして笑い男事件の真相を知った少佐もまた、SAC現象を起こし「動機ある他者」としての意思を持ち笑い男の模倣者となります。それらが伝播し、公安9課メンバーもまた動機ある他者として明確な意思を持ち、その正義を追求しました。その様は決して邪悪なものでも悍ましいものでもなく、熱い人間としての志ある行動です。

そして、動機なき他者が、何らかの不正や社会悪に対して批判する意思を持つこと "自体は" 全く正しいです。こんなもの議論するまでもありません。例えば我が国は民主主義国家です。まっとうな良心を持つ国民がきちんといなければ、まっとうな政治が成り立ちません。選挙する際に、正しくその候補者の人品骨柄を評価してこそ、正しい投票行動が行える事と同じです。あるいは、モラルもつ人々が大多数でなければ治安も維持できません。

そういった良心を持つことは全く正しい。しかし彼らがそれを私刑するような社会は全く悍ましい。

もう何度も書いていますが肝心なのは、「モラルを失わず悪しき物を批判する心を持つこと」と「自分もそれに加担する可能性のある存在であること」の天秤を保ち続ける事です。そういう意味で、僕は検証部騒動のいわゆる "追求勢" が、検証部に対して抱く嫌悪感とそれを批判する心は全く正しいと支持します。心の底から同意します。ただし、同時にそれらを自分には存在しない悪性であると好きなだけ石を投げる行為には、絶対同意しません。彼らの姿を、違う形の自分ではなかったか、と恐怖する事が大事だと思います。

「炎上」のモチベーション自体は邪悪なものではないと思います。そこには人の大衆性という悍ましさの反対側の側面である、人間の良心があります。良心と炎上は表裏一体です。何度も言うように肝心なのは、そこで自らのうちにある天秤のバランスを崩してしまわないように、己のバランスを取り続ける事だと確信しています。





ただし…


1.検証部を批判する事
2.検証部を批判する大勢の人たちのその動機
3.検証部に寄ってたかって石を投げ続ける大衆がいること

「3が異常だから、1と2も異常だ」なんてクソッタレな主張はホントやめてください。「石を投げる大衆が現れるからと、その動機自体を封殺する言動」には全く同意しません。まさに詭弁です。気持ち悪い。

2017年3月11日土曜日

検証部 その2

※ネタバレあり注意
聲の形のネタバレしてます。
この記事を読む前に是非読んでから御覧ください。

その上で、こちらと、こちらと、こちらと、こちらの批評も読んでいただければ、より理解が深まると思います。




聲の形にみるイジメ構図と検証部騒動


いくつかの作品の批評を書きましたが、今回は何度も取りげてきた聲の形と検証部騒動の2つをリンクさせて、その様を批評していきたいと思います。

今回の検証部騒動は、聲の形1巻中心に描かれていた、西宮いじめとそこから連鎖した石田いじめの構図とほぼ合致します。固有名詞を入れ替えるだけでほぼ全てが成り立ちます。

※性格や人物を相関させる意図ですので、その際、さすがに時系列ごとまでは合致しません。あくまで俯瞰した際の概略の関係図が全く合致するという点を留意ください。


西宮イジメ構図
※主要キャラで川井がいないのは、典型的な日和見で風潮に同調していたただけのため。


田中P叩き構図
※B氏とY氏だけ特定個人になってしまっているので、少し配慮してイニシャルにさせてもらいました。今更ではありますが、彼らを特定して非難したいわけではない、という意図です。(検証部メンバーを名指しせずに、両名だけ個人名を書くのはバランスに欠けると思いました)
分かり易く書くのにかなり苦労しました。ご覧の通りそれぞれ固有名詞を入れ替えるだけで、一連の検証部騒動と全く合致していると思います。田中Pを西宮役に割り当てるのは、キャラの絵面的にさすがに違和感あるとは思いますが…まぁ…仕方ないです…。田中Pも愛嬌ある方ですが、さすがに西宮さんほど可愛く無いんですけども…まぁそんな事は忘れてください。

しかし、何をされても物を言えない西宮と、何も言わない田中P、という性向は全く共通します。その理由が先天的障害か、業務上の責務としてかの差でしかありません。そんな相手を、好きなだけサンドバックにして楽しんでいる人達がいたという事です。

さらに加えて肝心なことは、西宮イジメを助長したものは、赤色の部分、最大多数である日和見層です。彼らがそれぞれのイジメ構図に積極的に批判的でさえあれば、イジメは起きなかったことは言うまでもありません。




石田イジメへの移行


そして次の構図。
石田いじめ構図

※石田(小)と(高)はそれぞれ小学生時代と高校生時代の石田。




検証部叩き構図

石田イジメと決定的に違うのは、検証部と石田(小)の差。石田(小)は、己の愚かさを理解することが出来たが、はたして検証部は…。


赤色の日和見層であった一部が、次は積極的にそのイジメ構造のコアに参加するようになります。
石田による西宮イジメは相当酷いもので、彼が批判されるべきは当然だとおもいます。しかし、石田に対するイジメもその酷さは何も変わりません。むしろ「西宮をイジメていた石田はイジメられて当然である」という認識が、より一層石田イジメを強烈なものへと増長させている面すらあります。


その背景には、クラス会で石田がそのイジメ構図を「教師含めた全員が許容していた事を指摘した」、という事があります。クラスの大多数は、自分達もまた消極的にイジメ構造に加担していたことを否定したいがために、なおさら全員が石田へ憎悪を集め、石田イジメの風潮が決定づけられたという事を指摘せねばなりません。

確かに石田には明確な罪があるでしょう。ではその彼の行動を容認していた大多数は一体なんなのか。石田イジメが黙認された背景には、石田に西宮イジメの罪の責任を全て負わせる為であったということです。その悍ましさは、西宮イジメをしていた石田と何ら変わることはありません。

今僕は大多数の人々を批判しています。ですから次にサンドバッグにされるのは僕になるかも知れません。最大多数の大衆性という、検証部メンツと表裏一体の悍ましさがその内面には存在しています。聲の形という作品は、まさにこういった、人間の内側にある特定のドグマがある局面を経た後反対側のドグマへと流れ行く、シーソーのように両極端な性質を孕んでいる事を描き出した作品でもあります。(同様の構図は前回の記事でも述べました)

※クラスメイトのイジメを容認する事と、ネットでの炎上を黙認する事の差異はもちろん認めます。ネットの炎上案件を鎮火させるのは困難極まりなく、真っ当な議論で鎮火に成功した話はほとんど聞いたことがありません。あくまで今回は、その構造的類形であるという比較であることを留意ください。

※何度も書きますが検証部を擁護する意図はありません。更には、B氏やその支援者、あるいは誰でも良いですがこの一連の騒動の関係者の特定個人の誰を非難するものでもありません。クドクドとエクスキューズを書き並べるような事はしませんが、全ての人間に同じだけ等しくそこには斟酌すべき事情が存在します。

以前の記事に書いたように、僕自身は石田将也というキャラクターが大好きです。己の罪と真正面から向き合い、それ自体を生き様にまで昇華させる、むしろ彼こそ聖人だろうと思います。そして、そんな石田に相当するB氏も、僕は心から尊敬します。





大衆性と検証部騒動


この騒動を通して言いたいことは、誰しもその内側には検証部的エゴが根底に流れており、それを自覚する必要があるという事です。これは本当に誰にでも起こりうることです。もちろん僕にも。

事象の規模の大小はあるとは思います。今回の騒動は、それが十数名前後程度規模のゲームユーザーグループでしかなかったため、この程度で収まりました。その異常性が明らかになるにつれ、より常識的な大多数の前に抑止されました。この反応自体は非常に正しい社会的防衛反応でした。

しかしその天秤がシーソーのように次は反対側へ傾く事もまた危険です。あるドグマから反対のドグマへ天秤のバランスが崩れると、そこから次の大きな大衆の怪物が生まれうる素地となります。

検証部は極少数の人間が客観性を喪失しエゴを大暴走させたに過ぎませんでした。人数規模が小さかったため、その被害規模も小さくすみました。しかしこの構図は、「クラス単位で起きればイジメ」として、「イデオロギー団体でならば内ゲバとテロ」を起こし、「都市規模で起きればポピュリズムという衆愚政治」になり、挙句の果てに「国家規模でならファシズム」へと至るものです。

重要なのは、その異常性を発現させる人数的規模が大きくなればなるほど、反比例して個々人の保有する異常性が小さくなる事です。言い換えると、一人一人が溜め込むほんの僅かなエゴの暴走を国家規模で累積すれば、その結果巨大で恐ろしい怪物が生まれます。その怪物の規模に反比例して個人へ帰結する責任は小さくなる。そういう大衆性の恐怖です。

笑い男事件の記事で書いた、「繋がりを持たない複合体(stand alone complex)」がとんでもない化物を生み出しているにもかかわらず、それが巨大であればあるほど、個々人の責任は極小化していく。それが大衆性の恐ろしさです。

「検証部の奴らの考えてる事は理解できない。あいつらは人間性を失った異常な存在なんだ」と、自分とは無関係な悪性であると切り離してしまうのは本当に危険だとおもいます。彼らだけが異常なわけではありません。あらゆる人が必ず内在させている、人間という存在自体の脆弱性。どこにでも誰にでも、必ずある話です。

ほんの些細なきっかけでその天秤は傾き、おぞましいドグマへと至る。この一連の騒動はその人間の脆弱性を顕にしたものに過ぎません。そしてそれらドグマはあらゆる場所で蠢き、この社会を覆い尽くしてしまっています。

公共事業叩き、公務員叩き、財政出動叩き、郵政叩き、左翼叩き、右翼叩き、農家叩き、林業叩き、各種業界団体叩き、原発叩き、土木叩き、豊洲叩き…………。そしてその反対側には、それらを叩くことで自分への支持へ還流させる悍ましき政治的意図とドグマ。維新だ改革だ、などと主張する低レベルな政治議論が横行する。何でもない善良である筈の人たちが、大衆という怪物を成すという事。あなたも僕もその化物の一部であるという現代社会の恐怖。

連想された方もおられるでしょうが、これはドナルド・トランプの移民排斥の問題や、EUにおけるBrexitなどの一連の現象と通底するものを感じるかも知れません。それはある意味正しいと思います。それまでのボーダーレスだの、グローバリズムだのという、馬鹿馬鹿しいドグマに天秤が大きく傾いていたのが、その異常性に気づいた国民が傾きを是正しようという動きの一環であると思います。その動き自体はとても正しい。

しかし今度は、再びそのまま大きく反対側へと天秤が傾き、差別主義や極端な排外主義へと繋がるのもまた愚かな事であるのは言うまでもありません。

政治にも人間関係にも正解などありません。あらゆる事象に当たる際、常に自分のなかの天秤をチェックし、そこに何か異常な傾きがありはしないか、自問自答しながら均衡を取り続ける事でのみ、己の異常性とドグマを是正できます。


検証部問題なんて、正直どうでもいいです。ただ単にこの社会の抱える恐ろしいほどの病巣があらわになった瑣末な事象の一つにしか過ぎません。その全てが等しく悍ましい。その有り様は僕にとってただただ絶望的なものとして映ります。





以上、この騒動から感じた事を書かせてもらいました。偉そうな事を言っていますが僕自身も自省せねばならぬ事ばかりであるのを日々痛感しています。ここまで読んでくださった方も同様に、少しでも何か感じ取っていただけたのならば幸いです。