https://38news.jp/politics/10569
↑とても重要な記事だと思います。
またしても僕のにわか知識を開陳してみます。大きく分けて憲法には「硬性憲法」と「軟性憲法」という概念があるそうです。改正手続き上のハードルが通常の法律よりも高く「硬い」憲法と、通常の法律と同様の手続きで改正可能な「柔らかい」憲法というものです。そこからもう少し拡大解釈して手続き以外の意味も含めて「ガチガチに改正が出来ない憲法」と「改正が柔軟な憲法」という意味で使われています。硬性・軟性どちらもメリット・デメリットはあるので今は良し悪しを論じません。しかし少なくとも現状に即しない憲法を掲げながら国が滅ぶのは、愚かである事は間違いありません。
そういう意味で、僕は憲法改正に積極的に賛成の立場を取ります。しかしながら、上記記事にある通りより良い憲法でなければならない事も全くその通りであると思います。
そこで議論になるのが、「日本はガチガチの硬性憲法であり、戦後に一度も改憲されていないため、『改憲慣れ』するためにも、取り敢えず何かしら憲法改正をするべきだ」という種の主張があります。確かに戦後70年以上たって、未だにこんなファンタジックなお花畑憲法を押しいただいているのは馬鹿馬鹿しい事この上ないでしょうね。そういう意味でも改憲には僕は賛成します。
しかしながら、「改憲」という行い自体に国民の可能な限りの合意形成された総意とその世論が成された上での改憲でなければならないと思います。取り敢えず何でもいいから強引にでも改憲なんてした場合にどうなるか。ましてや橋下などという、愚にもつかないポピュリストの政治家を招き入れて、滅茶苦茶な議論になった上での改憲例となってしまったら一体どうなるのか。
その改憲がより良いものとならなければ、むしろ今後の憲法改正が更に困難なものとなってしまいはしないか。大阪での都構想では市民の世論が2つに分断され、せっかく都構想が否決されて大阪市解体は防がれたにも関わらず、その大阪市民世論が賛否で分かたれてしまい、とても悲観的な空気があるとも聞きます。
同様に「改憲派がゴリ押して改憲したけど、碌でもない結果になったではないか」なんて、『改憲慣れ』どころか『改憲疲れ』な空気になれば、今後の改憲こそ二度と望めない「さらなる硬性憲法化」してしまう可能性が十二分にありうると思います。
都構想が全く馬鹿馬鹿しい非理性的な議論であったように、憲法改正がこのような議論のなかで行われるなら、この国が本当に自主独立の上での、僕達が僕達のための憲法を創るなど夢のまた夢になるとしか思えません。
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