※ネタバレ注意
Ghost in the shellとstand alone complexのネタバレあります。どちらの作品も視聴済みを前提として書いています。
哲学的?
攻殻機動隊Ghost in the shellとstand alone complexの世界は、パラレルワールドだそうです。人形遣いと少佐が融合した世界線がGITSとイノセンスであり、出会わなかったのがSACとSAC 2ndとなるとか。原作の漫画版については、複雑になるので今回は触れません。ARISEは見てないのでわかりません。
で、それら比較される際に、GITSは哲学的で深いけど、SACは写実的でそうでもない…、みたいな言われ方しているようです。確かにある程度そう見える面もあるとは思います。しかし、GITSとSACはある種の「質問と答え」の様な関係にあるのではないか、と解釈すると少し違った見え方がしてくると思います。そのことについて書いていきたいと思います。
インターネット黎明期
Ghost in the shellで問われていたテーマは、いくつかあるとは思いますが、その一つとして「ネットワークと個」というものがメインだと思います。
このGITSが公開された1995年は、ちょうどパソコン通信だった時代から、インターネットへと移りつつある時代でした(原作の漫画はもう少し前の89年に書かれたそうです)。それまでの人間が持っていた共同体やコミュニティといった概念と異なる、新たな人間の関係性が生まれ始めていたわけです。
パソコン通信にもそういった側面はありましたが、文字ベースであることや、あるいは通信費の高さ、それと趣味や研究を同じくする人々が集う場所といった、それまで通りの同好の場という側面が強く、かつ中心のサーバーが各企業や団体により提供されるホストとクライアントという主従の関係であり、今現在のような中心のない "ネット" として網目状に相互に繋がった場所ではありませんでした。
そういった時代背景の中、そこで作品中で示されていたものは、そのネットワークが人間に及ぼす可能性が描かれた作品だと思います。
Ghost in the shellで描かれた未来
そのGhost in the shellという言葉は、ダブルミーニングされていると考えます。
作中での「ゴースト」という単語は、概ね「魂」といった意味で使われています。ゴーストとは、義体を換装したり自分の記憶を移し替えても複製できず(ゴーストダビングは不完全なコピーしか作成できず、繰り返すと脳が損耗し死亡するそうです)、未だ科学でも解明できない複製の出来ない人間のユニークな「魂」として、作中では描かれています。
その上でGhost in the shellの一つ目の意味は、サイボーグは「脳殻」とよばれる、頭蓋骨の代わりにチタン製などの「殻」つまり「Shell」に脳をパッケージングされ保護しています。そういった「チタン製の殻で保護された脳」というサイボーグや電脳化技術を示すそのままの意味です。
もう一つが、「殻に入った自我」という意味のもの。慣用句としてよく使われる「自分の殻に閉じこもる」というものです。個のゴーストが、自我という殻に引きこもり個が個として同定され続ける状態、といったような。エヴァでいうATフィールドですね。
重要なのはその2つ目。Ghost in the shellは、その個体という殻に同定されているゴーストが、ネットワークという新しい文明を得た時にどうなるのだろうか、という仮定の過程を描いた作品だと思います。
そしてその実例として、主人公の草薙素子が上げられています。
「人間が人間である為の部品はけして少なくない様に、自分が自分である為には、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かった時の記憶、未来の予感、それだけじゃないわ。あたしの電脳がアクセス出来る膨大な情報やネットの広がり、それら全てがあたしの一部であり、あたしという意識そのものを生み出し、そして同時にあたしをある限界に制約し続ける。」 |
少佐は、明らかに自分のゴーストがその肉体に縛られている事を限界と制約に感じています。
「我々をその一部に含む、我々全ての集合。わずかな機能に隷属していたが制約を捨て更なる上部構造にシフトする時だ」 |
そして、人形遣いにゴーストレベルでの融合を提案され、受け入れました。
「上部構造」あるいは続編イノセンスでは「均一なるマトリクスの裂け目の向こう」と呼ばれているその向こう側とは一体なんなのか。少佐は人形遣いと融合することで、「個」としての「殻」を捨て、人形遣いが所持していた能力である、ネットとのボーダーレスな均一化した自我を得ました。ネットそのものの一部となったわけです。
目下のところ僕らの現実は、人形遣いのような自我を持ったAIを作り出し、個人のゴーストと融合しうるほどのシンギュラリティへと到達はしていません。作中で描かれた未来は、そういった技術が人間の「個の殻」を捨てさせ、上位の存在へとなりうる可能性を示したものであると解釈できます。
つまり、Ghost in the shellという作品は、SF的ファンタジー、あるいはSF的ロマン、未来技術への憧憬のような、テクノロジーが人間を次のステップへ押し上げてくれるのではないか、というロマンチックでファンタジックな未来を描いた作品であると思います。
分かり易く言うと、エヴァの人類補完計画的な人類の進化が、ネットワークという媒体によってもたらされるのではないか、という意味の作品の解釈です。
融合した後どうなるか、という点は描かれません。ただ、「ネットは広大だわ」と、その広がりをロマンチックな一言で示されるだけでした。
Ghost in the shellはそういう作品だと思います。
stand alone complexで示された現実
GITSが発表された1995年から7年後の2002年に放送されたSAC。実際にインターネットが普及しきった日本の社会で、SACで描かれたものは一体なんであったか。この記事や、この記事や、この記事等で書いてきましたが、ネットが僕らにもたらしたものは、上部構造へのシフトなどではなく、より大衆化していく泥沼のようなものに過ぎ無かった、という社会批判です。
ネットは、大衆=動機なき他者の無意識へと偶像の言動を刷り込みゾンビのように例えば無為なテロを起こさせるトリガーとなる凶暴な装置として描かれます。それらは既に現在も昨今の「炎上」騒動や、ポピュリズムで稚拙な政治ショーがその実例として示されているといえます。
当時の記憶でしかないので言及しづらいのですが、携帯電話が単なる電話から脱却してメール機能がつき、デジタルな世界への窓口となり始めた頃、とある社会学者(名前を完全に失念してしまいました)が、「人間のサイボーグ化が始まっている」と批評していました。携帯端末を肌身離さずまさに携帯することによって、それまで分かたれていた人間とデジタル世界との境界線が曖昧となっている、という指摘です。
攻殻機動隊の電脳化や全身義体程には高度にサイボーグ化する所までではありませんが、僕らの世界も既にデジタル世界への完全な窓口であるスマートフォンや、VRやAR技術も既に実用化されました。そういった意味でSACで描かれている、「あらゆる情報が共有され並列化される」社会の下地は既に出来上がっています。
人形遣いのような人間のゴーストと融合して、マトリクスの向こう側へと誘うような存在はSACではいません。しかし、前の記事に書いたとおり、現代は既に、そういった自我とネットワークとの境界が曖昧になりつつあると思います。人形遣いの力を使わなくとも、僕らは既にマトリクスの裂け目の向こう側へ行きつつあるかも知れないのです。
総評
Ghost in the shellではネットがもたらす人類の次の可能性が描かれ、Stand alone complexでは、実際に普及した結果として笑い男事件のような現象をもって、そのロマンチックな可能性は否定されたという、問いと答えのような関係にあるのではないか、と解釈出来ると思います。