2017年3月28日火曜日

Ghost in the shell と stand alone complex

※ネタバレ注意
Ghost in the shellとstand alone complexのネタバレあります。どちらの作品も視聴済みを前提として書いています。







哲学的?


攻殻機動隊Ghost in the shellとstand alone complexの世界は、パラレルワールドだそうです。人形遣いと少佐が融合した世界線がGITSとイノセンスであり、出会わなかったのがSACとSAC 2ndとなるとか。原作の漫画版については、複雑になるので今回は触れません。ARISEは見てないのでわかりません。

で、それら比較される際に、GITSは哲学的で深いけど、SACは写実的でそうでもない…、みたいな言われ方しているようです。確かにある程度そう見える面もあるとは思います。しかし、GITSとSACはある種の「質問と答え」の様な関係にあるのではないか、と解釈すると少し違った見え方がしてくると思います。そのことについて書いていきたいと思います。




インターネット黎明期


Ghost in the shellで問われていたテーマは、いくつかあるとは思いますが、その一つとして「ネットワークと個」というものがメインだと思います。

このGITSが公開された1995年は、ちょうどパソコン通信だった時代から、インターネットへと移りつつある時代でした(原作の漫画はもう少し前の89年に書かれたそうです)。それまでの人間が持っていた共同体やコミュニティといった概念と異なる、新たな人間の関係性が生まれ始めていたわけです。

パソコン通信にもそういった側面はありましたが、文字ベースであることや、あるいは通信費の高さ、それと趣味や研究を同じくする人々が集う場所といった、それまで通りの同好の場という側面が強く、かつ中心のサーバーが各企業や団体により提供されるホストとクライアントという主従の関係であり、今現在のような中心のない "ネット" として網目状に相互に繋がった場所ではありませんでした。

そういった時代背景の中、そこで作品中で示されていたものは、そのネットワークが人間に及ぼす可能性が描かれた作品だと思います。





Ghost in the shellで描かれた未来


そのGhost in the shellという言葉は、ダブルミーニングされていると考えます。

作中での「ゴースト」という単語は、概ね「魂」といった意味で使われています。ゴーストとは、義体を換装したり自分の記憶を移し替えても複製できず(ゴーストダビングは不完全なコピーしか作成できず、繰り返すと脳が損耗し死亡するそうです)、未だ科学でも解明できない複製の出来ない人間のユニークな「魂」として、作中では描かれています。

その上でGhost in the shellの一つ目の意味は、サイボーグは「脳殻」とよばれる、頭蓋骨の代わりにチタン製などの「殻」つまり「Shell」に脳をパッケージングされ保護しています。そういったチタン製の殻で保護された脳」というサイボーグや電脳化技術を示すそのままの意味です。

もう一つが、「殻に入った自我」という意味のもの。慣用句としてよく使われる「自分の殻に閉じこもる」というものです。個のゴーストが、自我という殻に引きこもり個が個として同定され続ける状態、といったような。エヴァでいうATフィールドですね。

重要なのはその2つ目。Ghost in the shellは、その個体という殻に同定されているゴーストが、ネットワークという新しい文明を得た時にどうなるのだろうか、という仮定の過程を描いた作品だと思います。

そしてその実例として、主人公の草薙素子が上げられています。


「人間が人間である為の部品はけして少なくない様に、自分が自分である為には、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かった時の記憶、未来の予感、それだけじゃないわ。あたしの電脳がアクセス出来る膨大な情報やネットの広がり、それら全てがあたしの一部であり、あたしという意識そのものを生み出し、そして同時にあたしをある限界に制約し続ける。

少佐は、明らかに自分のゴーストがその肉体に縛られている事を限界と制約に感じています。


「我々をその一部に含む、我々全ての集合。わずかな機能に隷属していたが制約を捨て更なる上部構造にシフトする時だ

そして、人形遣いにゴーストレベルでの融合を提案され、受け入れました。

「上部構造」あるいは続編イノセンスでは「均一なるマトリクスの裂け目の向こう」と呼ばれているその向こう側とは一体なんなのか。少佐は人形遣いと融合することで、「個」としての「殻」を捨て、人形遣いが所持していた能力である、ネットとのボーダーレスな均一化した自我を得ました。ネットそのものの一部となったわけです。

目下のところ僕らの現実は、人形遣いのような自我を持ったAIを作り出し、個人のゴーストと融合しうるほどのシンギュラリティへと到達はしていません。作中で描かれた未来は、そういった技術が人間の「個の殻」を捨てさせ、上位の存在へとなりうる可能性を示したものであると解釈できます。

つまり、Ghost in the shellという作品は、SF的ファンタジー、あるいはSF的ロマン、未来技術への憧憬のような、テクノロジーが人間を次のステップへ押し上げてくれるのではないか、というロマンチックでファンタジックな未来を描いた作品であると思います。

分かり易く言うと、エヴァの人類補完計画的な人類の進化が、ネットワークという媒体によってもたらされるのではないか、という意味の作品の解釈です。

融合した後どうなるか、という点は描かれません。ただ、「ネットは広大だわ」と、その広がりをロマンチックな一言で示されるだけでした。

Ghost in the shellはそういう作品だと思います。





stand alone complexで示された現実


GITSが発表された1995年から7年後の2002年に放送されたSAC。実際にインターネットが普及しきった日本の社会で、SACで描かれたものは一体なんであったか。この記事や、この記事や、この記事等で書いてきましたが、ネットが僕らにもたらしたものは、上部構造へのシフトなどではなく、より大衆化していく泥沼のようなものに過ぎ無かった、という社会批判です。

ネットは、大衆=動機なき他者の無意識へと偶像の言動を刷り込みゾンビのように例えば無為なテロを起こさせるトリガーとなる凶暴な装置として描かれます。それらは既に現在も昨今の「炎上」騒動や、ポピュリズムで稚拙な政治ショーがその実例として示されているといえます。

当時の記憶でしかないので言及しづらいのですが、携帯電話が単なる電話から脱却してメール機能がつき、デジタルな世界への窓口となり始めた頃、とある社会学者(名前を完全に失念してしまいました)が、「人間のサイボーグ化が始まっている」と批評していました。携帯端末を肌身離さずまさに携帯することによって、それまで分かたれていた人間とデジタル世界との境界線が曖昧となっている、という指摘です。

攻殻機動隊の電脳化や全身義体程には高度にサイボーグ化する所までではありませんが、僕らの世界も既にデジタル世界への完全な窓口であるスマートフォンや、VRやAR技術も既に実用化されました。そういった意味でSACで描かれている、「あらゆる情報が共有され並列化される」社会の下地は既に出来上がっています。

人形遣いのような人間のゴーストと融合して、マトリクスの向こう側へと誘うような存在はSACではいません。しかし、前の記事に書いたとおり、現代は既に、そういった自我とネットワークとの境界が曖昧になりつつあると思います。人形遣いの力を使わなくとも、僕らは既にマトリクスの裂け目の向こう側へ行きつつあるかも知れないのです。





総評


Ghost in the shellではネットがもたらす人類の次の可能性が描かれ、Stand alone complexでは、実際に普及した結果として笑い男事件のような現象をもって、そのロマンチックな可能性は否定されたという、問いと答えのような関係にあるのではないか、と解釈出来ると思います。

2017年3月25日土曜日

ネットワークと集合的無意識

※攻殻機動隊SACシリーズのネタバレ有り注意



ユングという心理学者の提唱した、集合的無意識という言葉はご存知でしょうか。

集合的無意識とは、個々人の意識や無意識よりも更に深いところに、人類が普遍的にアーキタイプ(元型)と呼ばれる概念を共有している、という説です。DNAに刻まれた記憶、とでも言えば分かりやすいかもしれません。

ユングは世界各地に散らばった神話や伝承などが、明らかに共通したストーリーを持っていたり、どの民族どの文化を調べても、何かしら共通性があること等を元に、人類には普遍的に共有されている概念を持っているのではないのか、と考えたそうです。

アニマ、アニムス、老賢者、なんて言葉は聞いたことあると思います。これらがアーキタイプと解釈され名付けられた概念です。「老人が夢に出てきてとあるアドバイスをもらった」という夢を、極単純な夢分析で「無意識が老人の姿を借りて警鐘を鳴らしてるのだ」、みたいな話しを聞いたことあるかもしれません。

その老人が、アーキタイプでいう老賢者であり、人間が誰しも共通して持っている概念の一つである、という感じです。

(しかしそれらは科学的に証明することは不可能で、オカルティックな側面を持ちます。現在では主流の心理学とは離れていると聞いたことがありますが、そのあたり全く詳しくないのでわかりません。とりあえずそういう説があった、ということです。)




では、ネットワークと集合的無意識がどう関係しているのか。攻殻機動隊SACで描かれているstand alone complex現象がそのものなのですが、あるいはもっと具体的な描写は2nd GIGでタチコマたちが明確にセリフとして喋っているシーンがあります。



「人間がその存在を決定付ける以前には存在していなかったネットの在り様が彼等の神経レベルでのネットと、今や地球を覆い尽くさんとしている電子ネットワークの双方によって自身の意志とは乖離した無意識を、全体の総意として緩やかに形成しているって事だよ。」

この頃のタチコマ達は非常に哲学的(あるいは衒学的)になっていて、もってまわった言い方をし、とても可愛いのですが、そのせいで分かりづらい表現かもしれません。

つまり、高度にサイボーグ化と電脳化の技術が普及し、かつネットワークが完全に地球を覆い尽くした世界では、自身が常にネットワーク端末の一つであり、かつその端末(個人)の集合体であるネットが事実上人間の集合的無意識を形成してしまっているのではないか、という事です。

ユングの説にすぎなかった集合的無意識というのが、サイボーグ化した人類とネットワークがボーダーレスに一体化した世界で実現してしまったのではないか、ということです。



具体的には、例えば笑い男がネット上のシンボル(あるいはアーキタイプ)となった事で、その言動が「動機なき他者の無意識」へと内包され、その結果として一部の人々の集団テロを誘発させる……。SACで描かれた現象はそういう事だと思います。

ネット上でシンボライズされた存在の言動や、そのムーブメント、あるいはその世論等へと、本人の自覚のないままそれらの一部へと取り込まれてしまう現象。そうして各端末であるそれぞれの人間の意識や無意識へ影響を及ぼし、stand alone complexを引き起こすのではないのか……。このネット上で形成された集合的無意識がstand alone complexの原因として作中で示されています。

長々と書いてきた攻殻機動隊SACシリーズの解釈ですが、その根底に流れているバックボーンがこれになります。

では、これらのネットワークが集合的無意識と化す可能性は、ただのフィクションであるのかどうか。散々書いてきましたが、stand alone complex現象は現実でも正に起きています。電脳化するまでもなく、携帯やスマホが既に僕らの生活と完全に不可分なものとなり、この端末は明らかに我々の自我の延長線上に存在しています。スマホが自我の延長線上であるなら、その端末の接続先であるネットワークも自我へ接続・内包されており、また逆にネットワークへ自我が取り込まれているという事でもあります。




近頃の細々とした種々の炎上事件から、大きなものならアラブの春まで、ネットツールを媒介とした様々な現象がありました。これらは全てある種のstand alone complex現象です。

この社会は既にそういう時代になっているのだ、と、僕には感じられます。



2017年3月16日木曜日

検証部 その3 stand alone complex / 動機ある他者

※ネタバレあり注意 

攻殻機動隊SACのネタバレしていきます。





検証部騒動自体については、もう特に言いたいこと無いので書くつもりありませんでしたが、明らかに僕の書いた関係図を下敷きにし、恣意的に一部を切り出して、いわゆる "追求勢" を批判する文脈の記事を見つけてしまいました。そういう人に同一視されると気持ち悪くてしょうがないですし、「大衆人」の批判ばかりしてきたので、そのバランスを取るためと、自己弁護のために、もう少し書いていきたいと思います。

本当は、この記事の続きとして、言及していた「動機ある他者の意思」という事について書きたかった事なのですが……。






炎上のモチベーション


ここのところずっと、いわゆる「炎上」事案で好きなだけターゲットに石を投げつける「大衆性」の悍ましさを批判する記事を書いてきました。それは事実であると確信しています。

では、その際に最初にその批判の声を上げた人が大衆人なのか否か。つまり誰も批判することの無かった、もしくは出来なかった傍若無人で邪智暴虐な存在に対して最初に声を上げた人が大衆人なのか否か。そして「炎上」する大衆の動機自体が邪悪なものであるのか否か。

僕はどちらも、否定します。







動機なき他者の無意識、或いは動機ある他者の意思


"動機には正当性が有るが、手段がおかしい" と何度も書いた気がします。要はその話になります。例えば近年色々と騒がせているツイッター等での炎上案件があります。一々例示しませんが、その切っ掛けはほぼ炎上した本人に原因がありました。

(※もちろん全くの冤罪炎上事件もありました。それは言うまでもなく、炎上していた本人の罪ではないです。その辺りの正当性を確保できない事が衆愚の衆愚たる所以、大衆性といえるでしょうね。)

食べ物を粗末に扱ったり、食器洗い機に体を突っ込んだりとか………、まぁなんでも良いです。もちろん検証部も。原因は全部やらかした本人が馬鹿だからです。そこに何の疑問の余地もありません。(※除く冤罪炎上)

では、そのやらかした人に寄ってたかって石を投げつける構図の何が悍ましいのか。答えはいみじくも聖書に書かれています。

" イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。"





馬鹿は増えたのか?



そういった人が現れる理由は、別に「世間に馬鹿が増えたから」なんて事ではないと思います。ただ単にそれが露呈しやすい媒体とツールが新しく生まれたためでしか無いと思います。例えば、本当に胸に手を当てて考えて頂きたいのですが……、

10代の頃にやらかした誰にも言えない秘密のない人いますか?

今思えば信じられない恥ずかしい事をやってしまった経験のない人いますか?

それが悪いことだと理解しながらも、犯してしまった倫理や罪の過去を持たない人がいますか?

バカッターなんて話題になったのは、今の10代の子達が手にしたスマホというツールに、「メール」「Facebook」「Twitter」「LINE」...etc. これらのアプリが均一にインストールされている事が原因にしかすぎません。僕の世代はネットの発達とともに成長し、それぞれの媒体の「特性」と「対外的オープン度合い」を理解できています。しかし10代の子達にポンとスマホを手渡して、それらがどの程度他者の目にとまるのか、特に何の説明も受けずに理解せぬまま使っていたのでしょう。そして、本来は "身内ネタ" として表沙汰になるものではなかった事柄が、表沙汰になってしまったに過ぎない現象だと思います。

加えて、手軽に動画や写真で記録を取り公開できてしまう、スマホという便利過ぎるツールがあるために、表沙汰になったにすぎません。馬鹿が増えたわけではなく、それが露呈する機会が増えただけです。

ガキがガキである特性を発揮してやらかした恥ずかしい過去の一ページに過ぎない事柄です。こんなもの誰にでもあります。近親者や近しい立場にいる大人が、その子供達をきつく叱って終わりです。彼らの過去に恥ずかしい歴史を刻んで終わりです。それに対して「社会的ヒステリー」と言ってもいいほど、大人たちが大騒ぎしてみんなで寄ってたかって石を投げるというのがどう考えてもおかしい。

それもまた、ネットやスマホというツールに対する社会的な不慣れさから起きたヒステリーだと僕には感じられます。






動機ある他者の意思と動機なき他者の無意識


そして、またしても攻殻機動隊 stand alone complexを引き合いに出してみます。26話で出てくるセリフ。この記事の続きになります。

全ての情報は共有し並列化した時点で、単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、或いは動機ある他者の意思に内包される。


セラノゲノミクス医療用マイクロマシン疑獄事件の真相を知った笑い男は、その不正を暴くため行動し、汚い大人たちへと挑みました。その動機ある意思はとても正しい。しかし、その真相を知るわけでもなく、stand alone complex現象を引き起こし、無為なテロを起こした動機なき他者達は全く愚かな大衆人と言わざるをえない、という動機なき他者達の問題を述べました。


この構図を炎上事案で例示すれば、
疑獄事件容疑者 = 炎上当事者
動機ある他者 = 親、教師等責任ある大人(刑事事件なら司法)
動機なき他者 = 炎上祭り参加者
という事になります。




ではその反対側、動機ある他者の意思とは。stand alone complex 23話では、少佐自身がまさに笑い男の模倣者となりました。また最終話では、トグサもSAC現象を起こしました。


笑い男を演じる草薙素子

公安9課のメンバーは、当初はただ笑い男事件を広域テロ事件のように扱っていました。しかし、捜査が進むにつれ、その裏にはもっと大きな政治的な意図とエネルギーがある事に気づきます。その際に、22話で笑い男が少佐と接触し、「記憶の並列化」が行われます。そして笑い男事件の真相を知った少佐もまた、SAC現象を起こし「動機ある他者」としての意思を持ち笑い男の模倣者となります。それらが伝播し、公安9課メンバーもまた動機ある他者として明確な意思を持ち、その正義を追求しました。その様は決して邪悪なものでも悍ましいものでもなく、熱い人間としての志ある行動です。

そして、動機なき他者が、何らかの不正や社会悪に対して批判する意思を持つこと "自体は" 全く正しいです。こんなもの議論するまでもありません。例えば我が国は民主主義国家です。まっとうな良心を持つ国民がきちんといなければ、まっとうな政治が成り立ちません。選挙する際に、正しくその候補者の人品骨柄を評価してこそ、正しい投票行動が行える事と同じです。あるいは、モラルもつ人々が大多数でなければ治安も維持できません。

そういった良心を持つことは全く正しい。しかし彼らがそれを私刑するような社会は全く悍ましい。

もう何度も書いていますが肝心なのは、「モラルを失わず悪しき物を批判する心を持つこと」と「自分もそれに加担する可能性のある存在であること」の天秤を保ち続ける事です。そういう意味で、僕は検証部騒動のいわゆる "追求勢" が、検証部に対して抱く嫌悪感とそれを批判する心は全く正しいと支持します。心の底から同意します。ただし、同時にそれらを自分には存在しない悪性であると好きなだけ石を投げる行為には、絶対同意しません。彼らの姿を、違う形の自分ではなかったか、と恐怖する事が大事だと思います。

「炎上」のモチベーション自体は邪悪なものではないと思います。そこには人の大衆性という悍ましさの反対側の側面である、人間の良心があります。良心と炎上は表裏一体です。何度も言うように肝心なのは、そこで自らのうちにある天秤のバランスを崩してしまわないように、己のバランスを取り続ける事だと確信しています。





ただし…


1.検証部を批判する事
2.検証部を批判する大勢の人たちのその動機
3.検証部に寄ってたかって石を投げ続ける大衆がいること

「3が異常だから、1と2も異常だ」なんてクソッタレな主張はホントやめてください。「石を投げる大衆が現れるからと、その動機自体を封殺する言動」には全く同意しません。まさに詭弁です。気持ち悪い。

2017年3月11日土曜日

検証部 その2

※ネタバレあり注意
聲の形のネタバレしてます。
この記事を読む前に是非読んでから御覧ください。

その上で、こちらと、こちらと、こちらと、こちらの批評も読んでいただければ、より理解が深まると思います。




聲の形にみるイジメ構図と検証部騒動


いくつかの作品の批評を書きましたが、今回は何度も取りげてきた聲の形と検証部騒動の2つをリンクさせて、その様を批評していきたいと思います。

今回の検証部騒動は、聲の形1巻中心に描かれていた、西宮いじめとそこから連鎖した石田いじめの構図とほぼ合致します。固有名詞を入れ替えるだけでほぼ全てが成り立ちます。

※性格や人物を相関させる意図ですので、その際、さすがに時系列ごとまでは合致しません。あくまで俯瞰した際の概略の関係図が全く合致するという点を留意ください。


西宮イジメ構図
※主要キャラで川井がいないのは、典型的な日和見で風潮に同調していたただけのため。


田中P叩き構図
※B氏とY氏だけ特定個人になってしまっているので、少し配慮してイニシャルにさせてもらいました。今更ではありますが、彼らを特定して非難したいわけではない、という意図です。(検証部メンバーを名指しせずに、両名だけ個人名を書くのはバランスに欠けると思いました)
分かり易く書くのにかなり苦労しました。ご覧の通りそれぞれ固有名詞を入れ替えるだけで、一連の検証部騒動と全く合致していると思います。田中Pを西宮役に割り当てるのは、キャラの絵面的にさすがに違和感あるとは思いますが…まぁ…仕方ないです…。田中Pも愛嬌ある方ですが、さすがに西宮さんほど可愛く無いんですけども…まぁそんな事は忘れてください。

しかし、何をされても物を言えない西宮と、何も言わない田中P、という性向は全く共通します。その理由が先天的障害か、業務上の責務としてかの差でしかありません。そんな相手を、好きなだけサンドバックにして楽しんでいる人達がいたという事です。

さらに加えて肝心なことは、西宮イジメを助長したものは、赤色の部分、最大多数である日和見層です。彼らがそれぞれのイジメ構図に積極的に批判的でさえあれば、イジメは起きなかったことは言うまでもありません。




石田イジメへの移行


そして次の構図。
石田いじめ構図

※石田(小)と(高)はそれぞれ小学生時代と高校生時代の石田。




検証部叩き構図

石田イジメと決定的に違うのは、検証部と石田(小)の差。石田(小)は、己の愚かさを理解することが出来たが、はたして検証部は…。


赤色の日和見層であった一部が、次は積極的にそのイジメ構造のコアに参加するようになります。
石田による西宮イジメは相当酷いもので、彼が批判されるべきは当然だとおもいます。しかし、石田に対するイジメもその酷さは何も変わりません。むしろ「西宮をイジメていた石田はイジメられて当然である」という認識が、より一層石田イジメを強烈なものへと増長させている面すらあります。


その背景には、クラス会で石田がそのイジメ構図を「教師含めた全員が許容していた事を指摘した」、という事があります。クラスの大多数は、自分達もまた消極的にイジメ構造に加担していたことを否定したいがために、なおさら全員が石田へ憎悪を集め、石田イジメの風潮が決定づけられたという事を指摘せねばなりません。

確かに石田には明確な罪があるでしょう。ではその彼の行動を容認していた大多数は一体なんなのか。石田イジメが黙認された背景には、石田に西宮イジメの罪の責任を全て負わせる為であったということです。その悍ましさは、西宮イジメをしていた石田と何ら変わることはありません。

今僕は大多数の人々を批判しています。ですから次にサンドバッグにされるのは僕になるかも知れません。最大多数の大衆性という、検証部メンツと表裏一体の悍ましさがその内面には存在しています。聲の形という作品は、まさにこういった、人間の内側にある特定のドグマがある局面を経た後反対側のドグマへと流れ行く、シーソーのように両極端な性質を孕んでいる事を描き出した作品でもあります。(同様の構図は前回の記事でも述べました)

※クラスメイトのイジメを容認する事と、ネットでの炎上を黙認する事の差異はもちろん認めます。ネットの炎上案件を鎮火させるのは困難極まりなく、真っ当な議論で鎮火に成功した話はほとんど聞いたことがありません。あくまで今回は、その構造的類形であるという比較であることを留意ください。

※何度も書きますが検証部を擁護する意図はありません。更には、B氏やその支援者、あるいは誰でも良いですがこの一連の騒動の関係者の特定個人の誰を非難するものでもありません。クドクドとエクスキューズを書き並べるような事はしませんが、全ての人間に同じだけ等しくそこには斟酌すべき事情が存在します。

以前の記事に書いたように、僕自身は石田将也というキャラクターが大好きです。己の罪と真正面から向き合い、それ自体を生き様にまで昇華させる、むしろ彼こそ聖人だろうと思います。そして、そんな石田に相当するB氏も、僕は心から尊敬します。





大衆性と検証部騒動


この騒動を通して言いたいことは、誰しもその内側には検証部的エゴが根底に流れており、それを自覚する必要があるという事です。これは本当に誰にでも起こりうることです。もちろん僕にも。

事象の規模の大小はあるとは思います。今回の騒動は、それが十数名前後程度規模のゲームユーザーグループでしかなかったため、この程度で収まりました。その異常性が明らかになるにつれ、より常識的な大多数の前に抑止されました。この反応自体は非常に正しい社会的防衛反応でした。

しかしその天秤がシーソーのように次は反対側へ傾く事もまた危険です。あるドグマから反対のドグマへ天秤のバランスが崩れると、そこから次の大きな大衆の怪物が生まれうる素地となります。

検証部は極少数の人間が客観性を喪失しエゴを大暴走させたに過ぎませんでした。人数規模が小さかったため、その被害規模も小さくすみました。しかしこの構図は、「クラス単位で起きればイジメ」として、「イデオロギー団体でならば内ゲバとテロ」を起こし、「都市規模で起きればポピュリズムという衆愚政治」になり、挙句の果てに「国家規模でならファシズム」へと至るものです。

重要なのは、その異常性を発現させる人数的規模が大きくなればなるほど、反比例して個々人の保有する異常性が小さくなる事です。言い換えると、一人一人が溜め込むほんの僅かなエゴの暴走を国家規模で累積すれば、その結果巨大で恐ろしい怪物が生まれます。その怪物の規模に反比例して個人へ帰結する責任は小さくなる。そういう大衆性の恐怖です。

笑い男事件の記事で書いた、「繋がりを持たない複合体(stand alone complex)」がとんでもない化物を生み出しているにもかかわらず、それが巨大であればあるほど、個々人の責任は極小化していく。それが大衆性の恐ろしさです。

「検証部の奴らの考えてる事は理解できない。あいつらは人間性を失った異常な存在なんだ」と、自分とは無関係な悪性であると切り離してしまうのは本当に危険だとおもいます。彼らだけが異常なわけではありません。あらゆる人が必ず内在させている、人間という存在自体の脆弱性。どこにでも誰にでも、必ずある話です。

ほんの些細なきっかけでその天秤は傾き、おぞましいドグマへと至る。この一連の騒動はその人間の脆弱性を顕にしたものに過ぎません。そしてそれらドグマはあらゆる場所で蠢き、この社会を覆い尽くしてしまっています。

公共事業叩き、公務員叩き、財政出動叩き、郵政叩き、左翼叩き、右翼叩き、農家叩き、林業叩き、各種業界団体叩き、原発叩き、土木叩き、豊洲叩き…………。そしてその反対側には、それらを叩くことで自分への支持へ還流させる悍ましき政治的意図とドグマ。維新だ改革だ、などと主張する低レベルな政治議論が横行する。何でもない善良である筈の人たちが、大衆という怪物を成すという事。あなたも僕もその化物の一部であるという現代社会の恐怖。

連想された方もおられるでしょうが、これはドナルド・トランプの移民排斥の問題や、EUにおけるBrexitなどの一連の現象と通底するものを感じるかも知れません。それはある意味正しいと思います。それまでのボーダーレスだの、グローバリズムだのという、馬鹿馬鹿しいドグマに天秤が大きく傾いていたのが、その異常性に気づいた国民が傾きを是正しようという動きの一環であると思います。その動き自体はとても正しい。

しかし今度は、再びそのまま大きく反対側へと天秤が傾き、差別主義や極端な排外主義へと繋がるのもまた愚かな事であるのは言うまでもありません。

政治にも人間関係にも正解などありません。あらゆる事象に当たる際、常に自分のなかの天秤をチェックし、そこに何か異常な傾きがありはしないか、自問自答しながら均衡を取り続ける事でのみ、己の異常性とドグマを是正できます。


検証部問題なんて、正直どうでもいいです。ただ単にこの社会の抱える恐ろしいほどの病巣があらわになった瑣末な事象の一つにしか過ぎません。その全てが等しく悍ましい。その有り様は僕にとってただただ絶望的なものとして映ります。





以上、この騒動から感じた事を書かせてもらいました。偉そうな事を言っていますが僕自身も自省せねばならぬ事ばかりであるのを日々痛感しています。ここまで読んでくださった方も同様に、少しでも何か感じ取っていただけたのならば幸いです。

2017年3月9日木曜日

攻殻機動隊 stand alone complex

※ネタバレあり注意 

ストーリーの根幹まで触れています。


今から15年も前2002年頃、攻殻機動隊 stand alone complexというアニメがありました。有名な作品ですので改めて紹介するまでも無いとは思います。ご覧になった方も多いでしょう。素晴らしく名作なので、是非ご覧ください。今回は2nd GIG等の続編には触れずに、1作目のみに絞って書きます。




stand alone complexとは


そのタイトルにもなり作中でもひたすら重要単語としてstand alone complexという言葉が頻出します。コンプレックスというと劣等感という意味の心理学用語(正確には劣等コンプレックスと言うそうです)として、日常的に定着していますが、本来は「複合体」や「複雑な」というような意味をもちます。つまり、

stand alone=孤立 complex=複合体

「孤立した複合体」という、矛盾した意味を内包する言葉です。今回はこの単語の意味について書いていきたいと思います。





笑い男事件


※ネタバレしていくので未見の方は注意してください。

作中でそのstand alone complexが示すものは、「独立した個体同士が、あたかも複合体であるかのように、ある一定、ある一様の動きを行う動態」というニュアンスです。例えば繋がりを持たない不特定多数の個人が示し合わせたかのように同時多発テロを起こすような。

今回はこのSACという言葉の解説に必要な分だけシナリオの概要を触れていきます。

その切っ掛けとなったのは、電脳硬化症という病気の治療薬に「セラノゲノミクス社」の医療用マイクロマシン(極微小なロボット)が厚生省の薬事審議会にて受けた認可の経緯に大きな疑獄があることを、ある天才的ハッカーが偶然知ったことがきっかけです。彼はハッキングの際に使われたロゴマークから、「笑い男」と呼ばれるようになります。

正義感にかられ、その一連の疑獄を暴こうとセラノゲノミクス社社長のセラノ氏本人を、笑い男はそのハッキング技術を駆使して誘拐、直談判し、その真相を公表するように説得しようと議論を試みます。数日に渡り議論が行われるものの、結局はそれに疲れたセラノ氏に、その場限りの口約束をその場で反故にされるという、失敗に終わります。



その失敗と敗北、それから己の無力さと、そこに立ち塞がる「醜悪な社会システム」を前に笑い男は口を閉ざしてしまいます。

そしてその "汚い大人たち" の狡猾さは、笑い男というイレギュラーな存在すら、自分達の集金システムの一部として組み込み、その後に連発する劇場型犯罪と企業テロを仕立て上げ、繰り返し、株価操作や政府補助金といった、大きなお金の還流するスキームを仕立て上げます。

そういった、医療用マイクロマシン疑獄の不正を暴くために起こされた誘拐事件すら、 "汚い大人たち" は「天才ハッカーによる劇場型企業脅迫テロ事件」として、虚像の笑い男を仕立て上げ、さらに世情をかき乱しながら私腹を肥やし続けます。




ドグマからドグマへ


そのセラノ社長誘拐も含め、捏造された一連の笑い男事件は、「わかりそうでわからない謎と、程よいタイミングで供給され続けるセンセーション」な出来事として、世間を賑わし、一過性の笑い男ムーブメントを引き起こし、ひとしきり騒がせた後に終息します。

それから6年後となるアニメ4話、警視総監記者会見場で再び本物の笑い男がその天才的ハッキング技術を見せ記者会見場を乗っ取り、セラノゲノミクスマイクロマシン疑獄の真相を語るように真相を知る警視総監を脅迫します。




そうして一旦は収まっていた笑い男事件が、大きな衝撃とともに再びセンセーションを引き起こします。そしてまたしも "汚い大人たち" は同様に笑い男事件を集金システムとして再利用しようとします。ところが、その大人たちをも予想外な形で、謎の同時多発テロが発生し警視総監暗殺未遂事件が起きます。

「大同! 真実を語れ!」

その暗殺未遂事件で逮捕された彼らには、何らかの団体に所属していたり、思想的共通性、宗教的共通性、あるいはリーダーが存在するわけでもなく、何も繋がりを持たないスタンドアローンな犯人たちでした。にもかかわらず、彼らは申し合わせたかのように同時多発テロを起こします。そんな繋がりをもたない複合体を「stand alone complex」と作中では呼ばれます。


彼らはそのマイクロマシン疑獄の真相など一切知らず、笑い男の主張していた事の本当の目的など理解するべくもありません。ただただ「笑い男」というネット上の偶像としてシンボライズされた存在の発言に影響されて、テロを起こしたに過ぎませんでした。警視総監の警備にあたっていた警官自身が発砲し直接危害を加えたり、一連の事象を一切理解していないただの老人までもがSAC現象を起こし、暗殺未遂現場へと無為にあつまる程の大規模なものでした。

真相を何も知らず、故に本当の動機もない、「動機なき第三者」にしか過ぎない人々が、そういった大事件を引き起こす。6年前の「劇場型企業テロを起こす笑い男とそのムーブメント」というドグマから、「真実を希求し社会悪を暴く笑い男とそのムーブメント」というドグマへとSAC現象が連鎖していく。そういった動機なき第三者達の愚かな大衆性が如実に表現されます。




SACと大衆性


真実を知らず、動機も持たず、第三者にすぎない、ごくただの一般人。作中で表される「大衆人」のそのさま(物語の後半にはその反対側として、「動機ある他者」へ伝播していく正の側面のSAC現象も描かれます。それはまた改めて。)

このstand alone complexは、その意味を理解すれば、かなり批判的なニュアンスが含まれている事がわかると思います。笑い男がセラノ社長を誘拐したり警視総監を脅迫したことには、ある一面の正義があります(もちろん犯罪行為ではありますよ)。

しかしSAC現象を起こした一般人たちはただの愚かな大衆人でしかありません。偶像の発言に触発され、その真相をなんら理解せずに、ただただ暴走し、義憤という名の盲目で独善的な妄執に駆られ、暗殺テロなどという大事件を引き起こしたものです。

そういったstand alone complexという単語の持つ批判的なニュアンスを踏まえた上で、是非この作品をご覧頂きたく思います。この作品はエンターテイメントとしても超一級の面白さであり、同時に社会批評性のある作品としても非常に重要な作品だと思います。

2017年3月6日月曜日

くそったれ!世界遺産

 タイトルはチャールズ・ブコウスキーの「くそったれ!少年時代」的に。

関係ないですが、この作品の原題は「Ham on rye」だそうで、ハムを挟んだライ麦パンの事。つまり、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を意識したタイトルです。サリンジャーに何か感じるものがある方は、ブコウスキーも是非読んでみてください。そのうち彼の書評も書きたいと思います。








…以下、備忘録も兼ねて書き殴り。

世界遺産って一体何がいいんですかね。僕は世界遺産が嫌いです。そしてそれを有難がる風潮も心底軽蔑する。別にへそ曲がりで、世間の逆張りしたくて言ってるわけではなく、合理的かつ心情的に心の底から嫌いだ。

戦勝国寄り合い所帯たる国連とその外郭団体ユネスコ。我々を未だに敵性国家としてその条項に盛り込んだままのクソッタレ組織に属するクソッタレ機関から、お褒めいただいて一体何を喜んでいるのか。

何故、文化や伝統の価値の優劣を人間が判断するのか。人の営みたる文化の優劣判断を付けれるのは、それは人間を超越した存在でしかない。それを、なぜたかだか戦勝国寄り合い所帯の一外郭団体でしかない彼らが、一体どういう了見で優劣をつけているというんだ。世界中のあらゆる伝統、文化、歴史、価値…そういったものを全て網羅、理解したうえでなければ、その優劣の判断など不可能だろう。そんなもの人間にできるものか。

さらには、何故そんなものの認定を有難く押し頂かなければならないのか。胸を張り、背筋を正して大きな声で言えばいい。我が国の文化伝統こそが最も尊い、と。

文化は自身の精神と肉体に深く刻まれたもの。すなわち自身と分かちがたい不可分であるもののはず。我々自身の肉体と精神とともに息づいたものであるはず。

であるならば、「文化を守ろう」という意識など持つまでもなく、プロシュート兄貴も言っているように「既に守っている」ものではないのか。自分の肉体を意識しなければ守れない人などいないでしょう。「守ろう」などと呼びかける時点で、既に我々と文化とが分かたれてしまっている、という事を自覚せねばならないのではないか。

文化と我々が不可分なものであるのだから、我々の生活に息づいたものであるのだから、それらを隔離して檻に閉じ込めてその外側から眺めるという事に違和感を抱かなければならない。これでは文化遺産という名の見世物小屋ではないか。それを "外国の方々" に観光にお越しいただいて閲覧していただくなどと言う事をどうして不快に感じられないのか。そこで見世物にされているのは、我々自身の血肉となっているもの。我々自身ではないのか。

そういった文化を観光資源にするということは、その本質的価値を徐々に削り取って、僅かな金子へと換金している行為にほかならない。世界中の観光名所を見てみればいい。人に踏み荒らされ摩耗しその歴史的価値がいかに削り取られ続けているか。そう遠くない将来に観光的価値の失われる観光名所というのが、日本に限らず世界中にあらわれるだろうね。

別に観光という行為そのものを否定したいのではない。観光によって生まれるあらたな文化もまたある。要はものには加減があるということ。貴重だから価値があり、非普遍的だから有難い。今まで受け継いだものを、ほんの少し頂いて、ほんの少し自分たちが改善したり痕跡を残した上で、次の世代へ引き渡す。そうすることで我々自身もまた伝統と文化という文脈へ還元される。その概念のことを「保守」と呼ぶのだ。右派のことが保守なんかではない。

我々の受け継いだ文化が何故現代において価値があるかというと、先人たちがそうやって今までメンテナンス(つまり保守)しながら維持し継承してきたからその価値がある。それを我々が、こうも消費してしまう事の異常性を何故みんな感じられないんだ。

人間が侵犯したせいで脅かされている動物たちを守るためとその啓蒙という側面を持つ動物園なら分かる。しかし、それを人間が人間の文化に行うというおぞましさ。我らが文化はツチノコか何かですか?

更には世界遺産に指定されてから、ようやくそれを有難がる人々。富士山は日本の象徴だといいながら、同時に平気で踏み荒らし汚していく。世界遺産に指定されてからようやく清掃作業などを始める本末転倒ぶり。その点、野口健氏はそんな世情とは一線を画しながら、ずっと以前から清掃活動を続けられ、その実情について啓蒙されており、本当に心から尊敬します。

略奪や政治的宗教的対立から保存が危ぶまれている歴史的遺産を守るために保護指定していくのは結構なことでしょう。是非やればよろしい。では、我が国の文化遺産がそういった危険にあるのか否か。あるとしたら何故?誰によって?

つまり、我々自身が、自分で自分たちの文化と伝統を貶めて、毀損させていると言わざるをえない。

人間自身の営みの記録とでも言うべき文化、人間の歴史の重みそのままが形となしている文化を、「世界遺産」などという低俗なカテゴライズしレッテルを貼る行為。本当はその受け継いできたものの重さ、それ自体を尊重すべきものを、保護などと言いながらフェンスで囲い、本当の人間の営みから切り離す行為。そうすることで、まるで現在に生きる我々が文化伝統をその手中に収めコントロール下に置こうとするような行為。人の文化に優劣をつけようとする奴らも、それを有難がる奴らも、等しく卑しいと言わざるをえない。

そうではないんだ、文化伝統こそが主で、我々は従でしかない。