2018年10月16日火曜日

本当の「首相案件」

森友学園の問題は、財務省が公開した文章ですべて結論が出たと僕は判断します。

安倍総理に言いたいことは山程ありますが、ソレはソレ、コレはコレ。あの文章を少しでも理解できれば、あの籠池夫妻の肩を持つなんてあり得ないと判断します。別に精読しなくとも斜め読みでもしてみれば、ほんの僅かな小指の先ほどしかないコネクションであろうとも最大限利用し、役所を動かすための梃入れの道具として利用して自分達の要望をねじ込み、更にモンスタークレーマーとして横暴に振る舞った人間の有り様が克明に残されています。

未だにこの問題を引っ張ろうとする政治家やメディア達は、真実や法よりも、明らかに政治的な綱引きや、何かしら別の意図のためだけですね。まぁ、戦略的に時にはそれが必要になりうる事もあるのは事実なので、全否定はしませんが。とはいえその手の人間嫌いですけどね。


とにかくそんな「首相案件」。自らの権力を用いて一部の民間へ利益誘導するように政治的に行政を捻じ曲げるな、という批判。

その批判が事実なら全くそのとおりだと思います。
本当にそんな癒着があるなら猛批判すべきです。
例えば過去には明確に明言した迷宰相がいました。

こちら↓
http://www.sankei.com/premium/news/141225/prm1412250006-n2.html

 現行制度の骨格が固まったのは23年夏。当時の菅直人・民主党政権は、東日本大震災の対応などから退陣を迫られ、退陣の条件に再生可能エネルギー特別措置法案の成立を挙げた。 
「国会には菅の顔だけはみたくないという人が結構いる。本当に見たくないのならば早く法案を通した方がいい」

動画はこちら
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14757242

全部見てはいないですが(マジで気持ち悪い動画なので)、目についた点だけ。


38:50頃
主催者とおぼしき男性の発言「今日はあの二部構成にしておりまして、一部構成は孫正義社長のえーお話をお伺いしまして、えー私達のエネシフナウ・ジャパンの主催、第二部は実はあのー自然エネルギーを拡大しようという、民間団体の25団体の主催です。えーこういう民間団体の主催に総理がおいで頂けるという事は画期的な事だと思います。えー多くの今回の主催団体の方非常に喜んでいおります。」
45:35頃
孫正義「この土俵際の粘りで、ね、この粘り倒して、この法案だけは絶対通してほしい!
47:50頃
菅直人 「『菅の顔だけはみたくない』という人が結構いるんですよ国会の中には。そういう人達にですね、言おうと思うんですよ。『本当に見たくないのか、本当に見たくないのか、本当に見たくないのかって。それなら早いことこの法案を通したほうがいいぞ』とね。」

明確に孫正義と、菅直人自身が意向を明言していますね。それを政治的にゴリ推したまさに「首相案件」でしょう。

一民間企業であるソフトバンク含むその他一般企業が強烈に推進する事業の会合を主催し、そこに現役の総理大臣が参加し、こんな発言をしていたという事。

これを首相案件と呼ばずになんと呼ぶのか?
政商と呼ばずになんと呼ぶのか?

モリカケに不正があるというならその批判もすればいいでしょう。しかしもっと巨額の利益をごく一部の民間団体や企業へ生み出した、この再生可能エネルギー固定価格買取制度に、一部の企業の意見が大きく反映され、時の総理菅直人が明確に「首相案件」である事を明言しながらでゴリ推した法律をなぜ批判しないのか。行政に首相の意向が加味される事がそれほど問題なのなら、これほど記録にはっきりと残った「首相案件」、どうぞどうぞ盛大に叩きまくってください。

モリカケの一連の事業に、大きな政治的な流れや動きとして、首相や与党の意向が汲まれたものは絶対にあったと思います(行政が与党の意向の影響を受けないというのはありえないため)。

行政のベクトルが総理の影響を受けた事態、それそのものが問題なのではなく、その影響が
「客観的事実や科学的根拠に基づいたものになっているか」
「何らかのイデオロギーに基づいた歪なものではないか」
「一部の企業や団体の意向を受け国民を蔑ろにしてはいないか」
という様な問題を孕んではいないか、という事こそが本質になります。

FIT(再生可能エネルギー固定価格買取制度)の問題は今更述べるまでもないでしょう。挙げればキリがないですが、売電の権利だけ取得して太陽光パネルの価格の値下がりを待つような悪質な業者(高値の買取価格を受ける権利だけ取得して実際の太陽光パネルの設置は、量産効果で価格が下がるまで放置しておくと初期投資を大幅に下げられる)や、大多数の国民は費用負担が増えるのみで、ごく一部の層だけが利益を得たという事、国民からそうして税のように徴収された調達費用が参入してきた外国資本へ流れるという事、あるいはそもそも太陽光パネルが乱立したことにより山林が伐採されかえって自然破壊が進んだ事実、それに伴う地すべりや水害。先般の台風でも様々な被害が発生しました。原発の問題よりも、よっぽど直近の問題として太陽光パネルが様々な被害を起こたのは事実です。

しばしば「政治は結果責任」と言われるように、政治家の動機や意図がどれだけ御大層な立派なものであったとしても、その結果国民が不幸になれば批判され責任を問われる事があるように、菅直人の「首相案件」の実態は一部の太陽光事業者に利益をもたらしたばかりで、大多数の国民にとっては間違いなく大損害であります。

モリカケに一ミリも問題がない、とは僕は決して言いません。大きな政治的な流れに現政権の方向付けがあったであろうとは思います。それを批判するのもいいでしょう。しかしそれと同時に、この菅直人の「首相案件」、あるいはそれと協調して積極的に活動していた政商孫正義を、それ以上に糾弾し弾劾すべきである、と思います。

2018年4月10日火曜日

筒井康隆短編「死にかた」と西部邁

筒井康隆の「死にかた」という短編について。

10人ほどのオフィスの一室に何の前触れもなく、金棒を持った鬼が現れて始まる。

鬼は何の感情ももたず、ただ無表情に一人ずつ金棒を振り下ろして殺していく。その際それぞれみんな様々な「死にかた」を演じる。

最初の一人目は何かの冗談かと思って無視して殺される
二人目は鬼の非道を非難して殺される
三人目は鬼を茶化して誤魔化そうとして殺される
四人目は鬼なんかいないフリで逃げようとして殺される
五人目は鬼に色仕掛けで命乞いをするも殺される
六人目は隣室から惨状を嗅ぎ付け面白がってたら殺される
七人目は鬼に殺されるぐらいならと自殺する
八人目は自分を後回しにしてくれと懇願して殺される
九人目は自ら鬼に首を差し出し、鬼を激怒させ殺される
十人目は鬼を懐柔したり、他に責任転嫁しながら殺される

最後に残った「オレ」は泣き叫んで小便もらしながら助けてくれと精一杯命乞いをする。そうすると鬼は「やっとまともな反応を示すやつを見つけた」「死にたくないといってまともに命乞いをしたやつはお前だけだよ」といって呵呵と大笑する。

恐る恐る「オレ」は自分だけは助けてくれるのか?と尋ねると、鬼は「いや。やっぱり殺すのだ」といって金棒を振り下ろすところで終わる。


西部邁の自裁を、「偉そうに豪語しながら一人で死ねなかった臆病者だ」とか「死ぬ大義を語ったくせに、最後に人に迷惑をかけて死んでいった」とか「かっこ悪い一人で死ね」とか「自身の家族や幇助者の家族のリアル生活をぶっ壊しやがって」とか「あの死に方の思想に価値がない」とか「寂しがりやのメンヘラジジイ」とかまぁみんな色んな事を言ってるんだけども。

どれもこれもまったくもって度し難いと断言する。死なんてのはこの鬼のように、暴力的で、一方的で、にわかに、否応なく、逃れようもなく、突然眼の前に降って湧くもんだ。

それをどうして、どいつもこいつもこんなに西部邁を馬鹿にできるんだろう。自分にも、いつかこうして理不尽に鬼に殺される日が来るのだ、と自分に置き換えて考えられないんだろうか。彼らは自分に死ぬ順番が回ってきた時、西部邁よりどれほど立派に死んでみせるんだろう。

その「死にかた」は如何程か。

2018年4月8日日曜日

偶像・西部邁 その2

http://best-times.jp/articles/-/4570 より引用

藤井 京都学派の哲学者、西田幾多郎の哲学「絶対矛盾の自己同一」も適菜さんがおっしゃったことと同じです。 日本的に言うと「和をもって尊としとなす」ですし、西欧でも「矛盾との融和」の力を「愛」と呼んでいる。

適菜 ヤスパースも言っていますが、哲学は答えを出すことが目的ではなく、矛盾を矛盾のまま抱えることだと。知に対する愛なんです。


「絶対矛盾の自己同一」
「矛盾を矛盾のまま抱えること」

ものすごく好きな言葉です。

西部邁がその主張と矛盾した最後を迎えたとしてなんだというのだろう。矛盾した西部邁の存在を抱えながら、それを受け入れて評価して次へつなぐ事が「保守」だと僕は思う。現実的に刑事上(形而上ではなく)の問題だとかは、そりゃあるし、良いか悪いかで言えば悪い事なんだろうとは思う。

だからってなんだというのだろう。人間は矛盾した存在で、それを抱えて生きるのが保守的だと、僕はむしろそう教わった。画一的な答えを出せない、出しようがないから人間で、それを求めるのは革新や設計主義の類だ、と。無謬な西部邁像を最後まで求める事こそ妄信的な側面が潜んでると思う。

削除されたけどキャッシュに残ってた動画から、西部先生最後のセリフの書き起こし。

人間はやはり、たった1回の人生で、他愛の無い人生ではあるが、まぁまぁ自分では納得できる方に近づけていこうと、いう方を選ぶもんですね。よりより基準・規範があるはずだ、と。結局一生かかってもそれは「これですよ」というふうに分かりやすくは示せないもんだろうけどね。でもそれを求めて、喋って書いて喋って書いてしているうちに、ほんっとに幸いなのは死ねることなんだ。これは後俺ね1000年同じことやれと言われたら「もうお願いですから死なせてください、もういいんです」と(笑)

絶対神や仏には近づけない。近づけば近づくほど、神と仏は遠のいていく。まぁ人間とはそういうもんだというね、当たり前の自覚の元にやれば、日本社会もねこんなギスギスもう、子供の騒ぎ、愚かしい状態から抜け出られるであろう。しかし、残念ながら抜け出ることは不可能であろう、と。結局人間はこういう事を今後ともこういう事をやり続けやり続け…。という事で終わり!


絶対的なものを示すことも、完璧な終末を遂げることを出来るのも不可能だし、自身がそうあれないように、この社会も矛盾を抱えながら続いていくし、そんな矛盾を抱えながら生きて死ぬ。

そういう事だと僕は理解します。

2018年4月7日土曜日

偶像・西部邁

この記事この記事前回の記事の続き

歳を重ねないと見えない事ってあるもんだし、もう病気で体が動かなくなってしまったら気力も衰えて変節することってあると思うよ…。80近い老人の最後の最後、完全に体が動かなくなるまで高潔で無謬であり続ける事を求めるなんて、それを貫き通して死ぬことを求めるなんて、酷だと思うよ。

現代日本の思想にあれほど最後の最後の瞬間まで貢献し続けて、もうこれ以上行ったら自裁する事すらできなくなってしまう前に、誰かに少し手伝ってもらったとしたっていいじゃない。頑張り続けた爺さんの最後のワガママじゃないか。許してあげようよ。

自分も同じ歳まで生きて、同じ様な境遇に生き、同じような病気にかかり、同じだけこの国に貢献をし続けて、その上で西部邁以上に高潔さを貫き通せた人間だけが、西部邁を批判できるんじゃないの? そんな人この世にいるの? 西部邁だって人間だったって事だよ。

西部邁の、そんな人間的な弱さを認められずに、無謬な超人性を今際の際まで求めることこそ、カルト的であると僕は断言する。自殺幇助した弟子にもしカルト性があったとしたら、その人間西部邁としての弱さを否定するんじゃない? つまり、西部邁の最後に見せた弱さを否定する人にこそカルト性の萌芽があると僕は批判する。

最後の最後まで高潔であろうとしたけどなりきれなかった西部邁の弱さを手伝うという事こそ、西部邁の弱さを認め、非カルト的に、西部邁のあり方と向き合ったといえると思う。

もちろん、自分の弟子を罪人にしてしまったことは問題であるのは言うまでもない。そこは否定しないんだけど、だからこそ、そこが西部邁も人間であった、って事なんだ。

以前にこの記事で書いた、筒井康隆の「敵」は、実は今回の話を念頭において書いてた。周知の事実なので書いてもいいと思うけど、西部邁が本当に自殺の準備を進めていたという事は、本人も番組等でしばしば口にされてたし、公然の事実であったと思う。

渡辺儀助と西部邁はプロフィールを並べただけでもよく似ていて、80近い老人で、元大学教授で、奥さんに先立たれ、誇り高く生きるも、心身ともに衰えを日々実感している。そんな敬愛すべき爺さんです。もちろん細かい所では色々差異はあるけども。

一番大きな違いは、渡辺儀助は自裁の手筈をととのえ後は実行に移すのみであったが「敵」である耄碌に襲われ痴呆を発症し実行できなかったこと。西部邁は実行したこと。

西部邁が渡辺儀助みたいに、「呑便だらり」となってしまう自分に耐えられなかったとして、それを手伝った人がいるとして。そんな西部邁の人間らしさを、弱さを、可謬性を、認めてあげてもいいじゃない。それを否定して「西部邁が最後の最後で間違えた! 彼も言行の不一致ではないか!」と批判するなんて、優しくないよ。

僕は、偶像・西部邁を否定します。
そして、人間・西部邁を受け入れます。
その上で、超人であり続けようとした西部邁を心から尊敬します。

2018年4月6日金曜日

自殺幇助について書き散らし

他所で言えないからココで書き散らし…

80近い死を覚悟した爺さんの自殺幇助で逮捕するなんて、犯罪として立件しようとするなんてどうかと思うよ。警察も忖度して、他殺ではないという確証さえ得たら不起訴で終わらすべきだと思う。

人生目一杯使って最後の最後まで自分の良識を社会に残してたら、病で体が思うように動かなくなって自裁すら覚束なくなってしまい、少しばかり手伝ってもらったって、その人の思想は毀損していない、と僕は思うよ。

三島由紀夫なんて、自分を信奉する楯の会の若者数名を巻き込んで市ヶ谷駐屯地を占拠してクーデター未遂をおこして割腹自殺した。その時に楯の会の森田必勝って人は三島由紀夫に追従して割腹自殺したぐらいだ。その三島由紀夫の思想をポジティブに捉えられる人なら、西部邁だって同じ様に、その残した物をポジティブに解釈して、その思想を紡いでいくべきだと思うんだ。

この今の日本の欺瞞を批判して正当性を語るなら、その欺瞞に守られて生きる僕らもまた欺瞞でしかなくて、最後はその欺瞞に体当たりでぶつかって砕け散るしかなくなってしまうのよね。三島由紀夫の演説の最後のセリフは、「諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか」と自衛隊員達に呼びかけても野次しか帰ってこないのを見て自決していった。勿論本当にクーデターを起こせるなんて、彼自身信じてたわけでは無いはと思う。


昨今でこそ、この三島由紀夫の行動をいくらかその意味を解釈する人たちは表れて来ているかも知れない。でもその当時は「右翼かぶれの作家が自分の美学に殉じて華々しく死ぬなんて、馬鹿なことをしでかした」みたいな風潮だったらしい。僕も伝聞でしか知らないけど。


実際見てみれば分かる通り、当の自衛隊員達さえもが三島に対して激しく野次を飛ばしてる。やはり当時はそういう風潮だったんだろうね。言うまでもなく左翼全盛期だし。

西部邁の死にしたって、今の僕らじゃそれを理解できるようなものではなくて、なおかつどう解釈していくかはこれからの僕ら次第なんじゃないのかなぁ。

2018年3月27日火曜日

論功行賞人事とトカゲの尻尾

https://www.asahi.com/articles/ASL3T7FMXL3TUEHF00B.html
「すべて(財務省)理財局で完結させ、幕引きを図ろうとしている意図を感じた。自らトカゲのしっぽになろうとしているのではないか。佐川さん、そこまで背負い込むことないやろ」と語った。

こんな感じで、佐川氏が官邸の罪を自ら被ろうとしてるんだ、という批判がなされているけども、物凄く違和感がある。

https://www.asahi.com/articles/ASK744SLHK74UTIL01D.html

去年2017年7月4日時点の報道で、佐川氏が局長に栄転したのは、
「事実に背を向けてでも、官邸の意向に従っていれば出世できるというあしき前例になる」と、起用した政府の姿勢を疑問視する。

と、論功行賞人事だって批判してたのに、今度はトカゲの尻尾切りだって批判するのはおかしくない? 論功行賞に値する人物だったのにトカゲのしっぽとして斬り捨てたっていうの?

佐川氏からの視点に立っても、出世したくて官邸を擁護する嘘をついたのだとしたら、そのために自身の人生が大きく狂わされて辞職する羽目になり、あまつさえ証人喚問に呼ばれたり刑事事件の訴追される対象になるなんて事になってまで「総理や財務大臣の関与や指示はありません」って言明するのはおかしくない?

もう忖度して嘘を塗り重ねる次元過ぎてるよね。財務省も佐川氏個人も、もう総理の意向を忖度しても得られる利益はないのに、一体何のために嘘を塗り重ねていると主張するのか。野党の意見がさっぱりわからない。

出世したくて嘘をついてるんだ、って批判してたんでしょ? でももうその人は人生破滅しかかってるんだけど、なんでまだ嘘つき続けてるって言えるの? その根拠は? そこまで言うなら、疑惑を持つ側がその論拠を示さないとなぁ。

もう野党の主張には全く正当性が感じられない。

2018年3月18日日曜日

今更ながら真珠湾でのスピーチ


2016年の年末に安倍総理は真珠湾を訪れ、スピーチを行いました。


一般的には戦勝国と敗戦国の融和として、大きく評価されています。僕の考えとしては、真珠湾訪問そのものは外交的大失態だと考えます。その辺り、いろいろ思う事があるので書き残しておきたいと思います。

前提として僕は安倍政権とその実行している政策は支持できる事がほとんどない、という意見であることだけは特記しておきます。その上で多分今まで誰も指摘していないであろう解釈を書きたいと思います。

今回はその際の安倍総理のスピーチについて。訪問自体は評価しないものの、そのスピーチは意外に面白いところがあるのでは?と思います。

その半年前の5月にオバマ大統領は広島を訪問しました。被爆者と抱擁し、「歴史的な和解」と言われています。原爆という民間人を大量虐殺した明らかに戦争犯罪を軽々と許してしまうのは、僕個人はとても認められないのですが…。まぁその辺りも改めて別の記事で。


スピーチ全文はこちら↓

話題になったのがこの一文
The brave respect the brave.
勇者は、勇者を敬う。
アンブローズ・ビアスの、詩(うた)は言います。
戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。

アンブローズ・ビアスは有名な「悪魔の辞典」を書いた作家です。その作家の残した詩の一節からの引用です。
詩の全文はこちら↓

僕も特別英語も米文学も得意でも詳しくもないし、現代英語と若干違う100年前の文章だし、聖書の知識がないと分からないし…。学のない自分には非常に難しくて、なにか致命的勘違いしてそうなのですが、一生懸命読み解いてみたいと思います。実は意外に安倍総理、なかなかにいい意味で曲者な所があるんじゃないかと考えました。全文訳は僕の力量では無理ですのでご容赦を。理解できた所だけ書きます。

話題になった当時にいろいろ調べていたのですが、この詩は南北戦争の犠牲者についての詩で、南軍の軍人の墓を追悼のため飾ろうとした事を北軍士官のE.S. SALOMONという人物が抗議した、という事を批判する詩です。

全体を通して書かれているのは、故郷のために戦った兵士達を称え、勝者である北軍の「勝てば官軍」な傲慢さを痛烈に批判しています。その中で日米関係に重要な所(と僕がなんとか理解できた所)を訳してみます。



The brave respect the brave. The brave
  Respect the dead; but you -- you draw
  That ancient blade, the ass's jaw,
And shake it o'er a hero's grave.

勇者は勇者に敬意を払う。
勇者は死者に敬意を払う。しかし君は…
ロバの顎、その古の剣を引き抜き、
英雄の墓の上で振るうというのか。


What if the dead whom still you hate
  Were wrong? Are you so surely right?
  We know the issues of the fight --
The sword is but an advocate.

君が死者を未だに憎悪しているなら
死者の何が間違っていたというのか?
君は本当に正しいのか?
我々は戦争の問題を知っており…剣はただ主張する。


The broken light, the shadows wide --
  Behold the battle-field displayed!
  God save the vanquished from the blade,
The victor from the victor's pride.

破れた光、広がる影…この広がる戦場を見よ!
神は敗者を刃から救い、勝者をその傲慢から救う。


If, Salomon, the blessed dew
  That falls upon the Blue and Gray
  Is powerless to wash away
The sin of differing from you,

サロモンよ、青と灰に降り注ぐ祝福された霧が
君とは違う罪を洗い流すには力不足だとしたら


Remember how the flood of years
  Has rolled across the erring slain;
  Remember, too, the cleansing rain
Of widows' and of orphans' tears.

忘れるな、幾年もの洪水が誤った犠牲者をいかに押し流したかを
忘れるな、未亡人と孤児達の浄化する涙の雨を


The dead are dead -- let that atone:
  And though with equal hand we strew
  The blooms on saint and sinner too,
Yet God will know to choose his own.

死者は死によって、その罪を償う事を許さる
しかし我々は聖者にも罪人にも等しく花を咲かせたが、
神は彼自身を選ぶ事を知っている。


The wretch, whate'er his life and lot,
  Who does not love the harmless dead
  With all his heart and all his head --
May God forgive him, I shall not.

恥知らずよ、その人生と運命がいかにあろうとも、
その全ての感情と理性をもって
罪のない死者を愛さないのなら…
たとえ神が許そうとも、私は許さないだろう


"Draw near, ye generous and brave --
  Kneel round this monument and weep
  For one who tried in vain to keep
A flower from a soldier's grave."

"汝寛大で勇敢なものよ、この碑に寄り跪き涙せよ
兵士の墓に花を手向け続ける事を
無為にしようとしたものの為に"


訳には正直全然自信ありません。本当に英語得意ではないので、辞書ひきながら考えましたが、大筋では間違っていないはず。しかし引用しなかった部分にはどう解釈したらいいのか分からないセンテンスも多いです。例えばthe ass's jawはロバの顎だそうで意味不明だったのですが、聖書の一節で、神の祝福を受けた人が振るうとロバの顎すら剣になり敵を薙ぎ払った、みたいな話があるそうです。英語圏の教養が必要なんでしょうね。(米文学得意な方、間違っていたら指摘いただければ、あるいは是非全文訳していただければ、とてもありがたいです)

僕も通り一遍しか知りませんが、さらに前提として、アメリカの南北戦争について知識が必要です。勝者はご存知リンカーンが率いる北軍で奴隷解放をうたい、南軍は奴隷制の維持を主張して内戦となりました。

一見何となく北軍のほうが正当性のある主張のように思えますが、どうやらそうとも限らないそうです。別に奴隷の人権を尊重して奴隷解放を叫んだというよりは、工業化が進んでいた北部にとっては、資産として非流動的な「奴隷」ではなく、流動性のある「労働者」が人手として必要だったのが背景にある、と言われているそうです。さらに付け加えるなら、国内においてはそのような美辞麗句で奴隷解放をうたいながら、その後の歴史的経緯では、帝国主義でもって他国を軍事力で隷属させ、国単位の「奴隷」を生み出していたというアメリカの欺瞞も指摘せねばなりません。勿論言うまでもなく、奴隷解放後も続く酷い人種差別も。

では、この詩を引用した安倍総理が何故したたかで、意外に曲者なのではないかと思わせるのか。ビアスの主張で重要なのは2点、敵味方問わず故郷の為に戦った死者への崇敬の念を持たない事への批判、そして勝者としての傲慢な自己正当化への批判です。

ビアスは北軍兵士の傲慢さを批判し、戦没した南軍兵士の勇気を称えています。これを敗戦国である日本の総理が第二次大戦の戦勝国であるアメリカでスピーチするという事。つまり、敗者である日本(南軍)が勝者であるアメリカ(北軍)の傲慢さを、ビアスの詩を引用することで非難する意味が込められていると解釈可能ではないでしょうか。

「原罪」なんて言葉があるように、人は他者を消費してしか生きられない存在です。僕が明日を生きるためには何者かの「生きる」という正義を消耗することで、ようやく今日を食いつなぐ事がようやくできます。戦争もその最たるもので、敗者の正義を消費することで勝者が生き残る事ができる。

でも! だからといって! 敗者である僕たちがその現状を甘んじて受け入れ、勝者のケツを舐めるような行為を延々何十年も繰り返さなければいけない道理はない。

死者の墓に神の威光を掲げた剣を振るうという勝者の傲慢を批判し、君は本当に正しいのか?と問う。そんな詩を、敗戦国が戦勝国へ突き付けたわけです。表向きは戦没者同士の慰霊と友好を演出しながら、同時に勝者の傲慢(the victor's pride)を批判する、という相当練り込められたスピーチではないか、と推測します。

2018年2月16日金曜日

攻勢と痛い目

三浦瑠麗の件はどーなんだろう…。

一昔前、オウムがまだテロ集団とバレる前、上祐の詭弁にのせられてオウムを擁護する"知識人"達でメディアは溢れてたよね。でも結局はテロ集団で、アサルトライフル密造してたサリン撒いたりした。

ある程度予断と見込みで犯罪に対して「攻勢」に対処してしまうほうが被害は抑えられる。勿論そこで証拠もなく人種差別やらなんやらで弾圧したりするのは問題だけど。

専守防衛論と同じで、やられてからしか自衛権の発動ができないのじゃ、致命的な被害を受けてしまう可能性が高い。

これを差別問題と突き合わせてどう解決するのか、僕には答えはわからない。

まぁ現実的な未来として見えるのは、国家転覆を狙ったテロを実行したオウムに破防法適用されなかったし、3.11の災害があっても防災インフラの整備は進まないし、敵国は既に核兵器をこちらに向けてるのに核武装どころか防衛費増額すらされない。じゃぁ北に対しては…。

それぐらい呑気で間抜けな国風なんだ。今回にしても町山なんとかも、デイリーメールは信用に足るのか否かとか、ポリティカルコレクトネスの議論ばかりで、国防とかけ離れた論争にしかなってない。

平和ボケした日本は「痛い目見ないとわからない」ってしばしば言われるけど、既に我が国は「痛い目見てるのにわかってない」って状況なのがなんとも…。




…ただそれとは別に三浦瑠麗は嫌いです。

2018年1月21日日曜日

西部邁と夏目漱石「こころ」

覚えているのは20年程前、ネットなんかは無く、テレビが言論の主戦場で、朝まで生テレビなんて討論番組が世相の最先端、っていう時代。この番組での議論の趨勢がメディア全体の論調にも結構影響を与えていたなんて頃。

その頃の僕は10代半ば、誰しもあるように僕自身も社会と自分との関わり方の悩みを抱えていて、「まがいなりにもそれなりの識者達がいて、自分よりもずっと大人なこの人達の議論から何か学べるんじゃなかろうか」って感じで何も知らずにボンヤリとあの番組を見ていました。

当時の自分に議論の中身そのものを過不足なく理解はできたとは言えないけども、それでも彼らがほとんど空虚な、世相という薄甘い共通認識をレトリックの泥で塗り固めた凶器で相手を言い負かそうとする奴らばかりである事だけは理解できました。

そんな中で西部先生だけは、別の言語なのかと思うほど異なる言葉を話されていました。クソガキだった僕にもひと目で分かる、いい意味で他の言論人と全く異質なその存在。正直に白状すると当時の自分にその意味を全て理解できたとはとても言えないけども、それでも「この人だけは違う」と確信した記憶があります。

例え他の誰も主張している者がいなくても、例え他の誰にも理解されなくとも、自分の信じる言葉を誠実に話されるその姿。道に迷ってた時に西部邁の言葉を聞けたから、今の自分が多少なりとも物事が見えて、多少なりとも耳が聞こえるようになったんだと思います。

…いつかもしかしたら、こんな感じで西部先生に直接お礼をお伝えする機会があったらな、なんて考えていたのですが、残念ながらその機会は永久に失われてしまいました。本当に残念です。


夏目漱石の「こころ」の一節を思い出します。


 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

 「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

明治天皇が崩御され、乃木将軍も殉死された時に「明治」的なものが永久に去ってしまったと、「こころ」の「先生(あるいは漱石自身)が感じた様に、こうして僕らからも今日、西部先生と一緒に戦前から戦後へと連なるマトリクスが去っていったような気がします。

知れば知るほど尊敬する先生でした。西部邁先生のご冥福をお祈りします。

2018年1月3日水曜日

馬鹿なことを言う権利 その2

前回の記事の続き




あまりに目に余る…。




オルテガ先生はこの手のタイプの人間を徹底的に批判しています。


かれら(大衆)の心の根本的な構造は、閉鎖性と不従順さでできているからであり、事物にたいしてであれ、人にたいしてであれ、自分らを越えた向こう側にあるものに服従する機能が、生まれつき欠けているからである。 (p.78)
大衆は大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(p.91)

紛いなりにも、朝生は30年以上の伝統ある番組で、僕も記憶にありますが、昔は本当にこの馬鹿みたいな幼稚な非武装中立論を叫んでた奴らがいたんですよね。しかしさすがに馬鹿すぎて駆逐されたという経緯があります。彼の知的不誠実さは、その30年の議論の結果を無下にし、30年分巻き戻そうとする所業であり、人間の文明の発展を阻害する行為にほかならないんですよ。


文明の、ある特定の原理に関心がないというのではなく、文明のいっさいの原理に興味がないのである。(p.95)
現代の大衆的人間は、じっさいに原始人であって、この原始人が文明の古い舞台のなかに書割からすべりこんできたのである。(p.97)

何よりも度し難いのは、学者に食って掛かる際に彼は「己の無知」を武器に食って掛かる有様。そして反論できなくなると、次は「反論できないこと」を武器に殴り掛かるという。

こんなのを重宝しようとしているらしい、田原総一朗も相当罪が深い。むしろ、発展しようとする議論に対して、意図してこの手の馬鹿を混ぜる事で振り出しに戻し、例えば日本の防衛力の強化への前提となる世論形成を阻害しようとする明確な悪意があるのではないか、と解釈せざるを得ません。

危険な潮流を感じますね…。

2018年1月2日火曜日

馬鹿なことを言う権利

妙な漫才師が討論番組に出演して、非常に陳腐な持論と詭弁を展開したことが話題です。非武装中立論だとか、沖縄は中国のものだとか、誰かを殺すぐらいなら殺される事を選択する等々の発言が批判されてますね。

まぁ確かにこれらも問題なんだけど、個人的にもっと酷いと思ったのはこちらの発言。




書き起こし:
「(自分は)視聴者の代弁者だから」
「みなさんこれテレビですよ。これは若い人からお年寄りまで見てるわけですよ。だから一から十まで聞く必要があるんですよ。」

自衛隊違憲論が何か分からない、などと、この手の議論をする上での最低限の前提すら知らず、それを批判されると「大多数の声」という架空の民意を持ち出し、自分が愚かな事を発言する権利を主張する。

人は社会的分業を行うもので、何かにつけ専門と専門外というのがあります。得手不得手があり、誰しも不得手な事があるのは、悪いわけでは無いと思います。憲法問題が理解できないなら出来ないでもいい。全くかまわない。

だけれども!
理解できていないということを笠に着て、理解していないがゆえに、己の無知ゆえに、その主張を声高に叫ぶ権利など無い。そんなもの言論の自由とは呼ばない。

この手の無知蒙昧な大衆に対して、スペインのオルテガ先生が「大衆の反逆」という本で的確に切り捨てています。


『人権』『市民権』のような共通の権利は、受身の財産、まったくの利益、恩恵であり、あらゆる人間が遭遇する運命からのありがたい贈物であり、その運命を享受するには、呼吸をし狂人にならないようにする以外なんの努力もいらない。(中公クラシックス版 p.74)
簡単に言えば、偶然かれの頭のなかにたまった空虚なことばをたいせつにして、天真爛漫だからとでもいうほか理解できない大胆さで、そういうことばをなににでも押し付けるのである。(中略)凡人が、自分は卓抜であり、凡庸でないと信じているのではなくて、凡人が凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押しつけているのである。(p.82)

自分が愚かであることを認識し、愚かであるがゆえの権利として、自分よりも優れた者に口を挟み、その議論を凡庸化させる有様。まさにオルテガ先生の批判した大衆そのもの。



そして、次はこの態度


書き起こし:
(自分の主張がいかに間違っているか指摘され)
「これって議論じゃないですか。これって議論でしょ。非武装中立でも良い面と悪い部分があるんですけど、今一斉に悪い部分を言ってるから、これ会話にならないから駄目です」

なんて酷い詭弁…。オルテガ先生はこう言います。


目が見えず耳が聞こえないにもかかわらず、かれらが口をだし、『意見』を押し付けないような社会生活上の問題は、一つもない。(p.84)
大衆的人間は、議論をすれば、途方に暮れてしまうだろうから、かれの外にあるあの最高の権威を尊重する義務を本能的に嫌うのである。したがって、ヨーロッパの『新しい』事態は、『議論をやめる』ことである。(p.87)

非武装中立がいかに問題か、と指摘している意見に反論があるならその非武装中立の良い面を自ら主張すべきなのを、詭弁を弄して、自分より優れた意見に耳を閉ざして己の意見を押し付け、より優れた意見を否定する。そうして議論そのものを否定する。

ああ。もう絶望したくなります。



オルテガ先生はこう書きます。

なんらかの問題に直面して、頭のなかにうまいぐあいに存在する考えで満足する者は、知的な面での大衆である。それに反して、まえもって努力して得られたのではなく、ただ頭のなかにあるものを軽んじ、かれの上にあるものだけを自分にふさわしいと受け入れ、それに達するために新たに背伸びをする人は、すぐれた人である。(p.79)

簡単にいえば、自分の頭に湧いてきた考えを重視せずより優れた意見に耳を傾け、そこに至るように謙虚に努力すべし、ということです。この漫才師にはその様子は一切伺えませんね。

僕自身も、現代人の一人として、こういった大衆的なものの呪縛から逃れられません。僕も明確にオルテガが批判した大衆人の一人です。しかし、それでも、こんな知的に不誠実な有様よりはいくらかマシであるとは自負します。

彼のような人物を他山の石とし、大衆的なものへの自らを律するための悪い見本とするべきだと、まさに凡庸さの戒めとして省みるべき事例だと思います。