藤井 京都学派の哲学者、西田幾多郎の哲学「絶対矛盾の自己同一」も適菜さんがおっしゃったことと同じです。 日本的に言うと「和をもって尊としとなす」ですし、西欧でも「矛盾との融和」の力を「愛」と呼んでいる。
適菜 ヤスパースも言っていますが、哲学は答えを出すことが目的ではなく、矛盾を矛盾のまま抱えることだと。知に対する愛なんです。
「絶対矛盾の自己同一」
「矛盾を矛盾のまま抱えること」
ものすごく好きな言葉です。
西部邁がその主張と矛盾した最後を迎えたとしてなんだというのだろう。矛盾した西部邁の存在を抱えながら、それを受け入れて評価して次へつなぐ事が「保守」だと僕は思う。現実的に刑事上(形而上ではなく)の問題だとかは、そりゃあるし、良いか悪いかで言えば悪い事なんだろうとは思う。
だからってなんだというのだろう。人間は矛盾した存在で、それを抱えて生きるのが保守的だと、僕はむしろそう教わった。画一的な答えを出せない、出しようがないから人間で、それを求めるのは革新や設計主義の類だ、と。無謬な西部邁像を最後まで求める事こそ妄信的な側面が潜んでると思う。
削除されたけどキャッシュに残ってた動画から、西部先生最後のセリフの書き起こし。
人間はやはり、たった1回の人生で、他愛の無い人生ではあるが、まぁまぁ自分では納得できる方に近づけていこうと、いう方を選ぶもんですね。よりより基準・規範があるはずだ、と。結局一生かかってもそれは「これですよ」というふうに分かりやすくは示せないもんだろうけどね。でもそれを求めて、喋って書いて喋って書いてしているうちに、ほんっとに幸いなのは死ねることなんだ。これは後俺ね1000年同じことやれと言われたら「もうお願いですから死なせてください、もういいんです」と(笑)
絶対神や仏には近づけない。近づけば近づくほど、神と仏は遠のいていく。まぁ人間とはそういうもんだというね、当たり前の自覚の元にやれば、日本社会もねこんなギスギスもう、子供の騒ぎ、愚かしい状態から抜け出られるであろう。しかし、残念ながら抜け出ることは不可能であろう、と。結局人間はこういう事を今後ともこういう事をやり続けやり続け…。という事で終わり!
絶対的なものを示すことも、完璧な終末を遂げることを出来るのも不可能だし、自身がそうあれないように、この社会も矛盾を抱えながら続いていくし、そんな矛盾を抱えながら生きて死ぬ。
そういう事だと僕は理解します。
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