2018年1月21日日曜日

西部邁と夏目漱石「こころ」

覚えているのは20年程前、ネットなんかは無く、テレビが言論の主戦場で、朝まで生テレビなんて討論番組が世相の最先端、っていう時代。この番組での議論の趨勢がメディア全体の論調にも結構影響を与えていたなんて頃。

その頃の僕は10代半ば、誰しもあるように僕自身も社会と自分との関わり方の悩みを抱えていて、「まがいなりにもそれなりの識者達がいて、自分よりもずっと大人なこの人達の議論から何か学べるんじゃなかろうか」って感じで何も知らずにボンヤリとあの番組を見ていました。

当時の自分に議論の中身そのものを過不足なく理解はできたとは言えないけども、それでも彼らがほとんど空虚な、世相という薄甘い共通認識をレトリックの泥で塗り固めた凶器で相手を言い負かそうとする奴らばかりである事だけは理解できました。

そんな中で西部先生だけは、別の言語なのかと思うほど異なる言葉を話されていました。クソガキだった僕にもひと目で分かる、いい意味で他の言論人と全く異質なその存在。正直に白状すると当時の自分にその意味を全て理解できたとはとても言えないけども、それでも「この人だけは違う」と確信した記憶があります。

例え他の誰も主張している者がいなくても、例え他の誰にも理解されなくとも、自分の信じる言葉を誠実に話されるその姿。道に迷ってた時に西部邁の言葉を聞けたから、今の自分が多少なりとも物事が見えて、多少なりとも耳が聞こえるようになったんだと思います。

…いつかもしかしたら、こんな感じで西部先生に直接お礼をお伝えする機会があったらな、なんて考えていたのですが、残念ながらその機会は永久に失われてしまいました。本当に残念です。


夏目漱石の「こころ」の一節を思い出します。


 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

 「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

明治天皇が崩御され、乃木将軍も殉死された時に「明治」的なものが永久に去ってしまったと、「こころ」の「先生(あるいは漱石自身)が感じた様に、こうして僕らからも今日、西部先生と一緒に戦前から戦後へと連なるマトリクスが去っていったような気がします。

知れば知るほど尊敬する先生でした。西部邁先生のご冥福をお祈りします。

2018年1月3日水曜日

馬鹿なことを言う権利 その2

前回の記事の続き




あまりに目に余る…。




オルテガ先生はこの手のタイプの人間を徹底的に批判しています。


かれら(大衆)の心の根本的な構造は、閉鎖性と不従順さでできているからであり、事物にたいしてであれ、人にたいしてであれ、自分らを越えた向こう側にあるものに服従する機能が、生まれつき欠けているからである。 (p.78)
大衆は大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(p.91)

紛いなりにも、朝生は30年以上の伝統ある番組で、僕も記憶にありますが、昔は本当にこの馬鹿みたいな幼稚な非武装中立論を叫んでた奴らがいたんですよね。しかしさすがに馬鹿すぎて駆逐されたという経緯があります。彼の知的不誠実さは、その30年の議論の結果を無下にし、30年分巻き戻そうとする所業であり、人間の文明の発展を阻害する行為にほかならないんですよ。


文明の、ある特定の原理に関心がないというのではなく、文明のいっさいの原理に興味がないのである。(p.95)
現代の大衆的人間は、じっさいに原始人であって、この原始人が文明の古い舞台のなかに書割からすべりこんできたのである。(p.97)

何よりも度し難いのは、学者に食って掛かる際に彼は「己の無知」を武器に食って掛かる有様。そして反論できなくなると、次は「反論できないこと」を武器に殴り掛かるという。

こんなのを重宝しようとしているらしい、田原総一朗も相当罪が深い。むしろ、発展しようとする議論に対して、意図してこの手の馬鹿を混ぜる事で振り出しに戻し、例えば日本の防衛力の強化への前提となる世論形成を阻害しようとする明確な悪意があるのではないか、と解釈せざるを得ません。

危険な潮流を感じますね…。

2018年1月2日火曜日

馬鹿なことを言う権利

妙な漫才師が討論番組に出演して、非常に陳腐な持論と詭弁を展開したことが話題です。非武装中立論だとか、沖縄は中国のものだとか、誰かを殺すぐらいなら殺される事を選択する等々の発言が批判されてますね。

まぁ確かにこれらも問題なんだけど、個人的にもっと酷いと思ったのはこちらの発言。




書き起こし:
「(自分は)視聴者の代弁者だから」
「みなさんこれテレビですよ。これは若い人からお年寄りまで見てるわけですよ。だから一から十まで聞く必要があるんですよ。」

自衛隊違憲論が何か分からない、などと、この手の議論をする上での最低限の前提すら知らず、それを批判されると「大多数の声」という架空の民意を持ち出し、自分が愚かな事を発言する権利を主張する。

人は社会的分業を行うもので、何かにつけ専門と専門外というのがあります。得手不得手があり、誰しも不得手な事があるのは、悪いわけでは無いと思います。憲法問題が理解できないなら出来ないでもいい。全くかまわない。

だけれども!
理解できていないということを笠に着て、理解していないがゆえに、己の無知ゆえに、その主張を声高に叫ぶ権利など無い。そんなもの言論の自由とは呼ばない。

この手の無知蒙昧な大衆に対して、スペインのオルテガ先生が「大衆の反逆」という本で的確に切り捨てています。


『人権』『市民権』のような共通の権利は、受身の財産、まったくの利益、恩恵であり、あらゆる人間が遭遇する運命からのありがたい贈物であり、その運命を享受するには、呼吸をし狂人にならないようにする以外なんの努力もいらない。(中公クラシックス版 p.74)
簡単に言えば、偶然かれの頭のなかにたまった空虚なことばをたいせつにして、天真爛漫だからとでもいうほか理解できない大胆さで、そういうことばをなににでも押し付けるのである。(中略)凡人が、自分は卓抜であり、凡庸でないと信じているのではなくて、凡人が凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押しつけているのである。(p.82)

自分が愚かであることを認識し、愚かであるがゆえの権利として、自分よりも優れた者に口を挟み、その議論を凡庸化させる有様。まさにオルテガ先生の批判した大衆そのもの。



そして、次はこの態度


書き起こし:
(自分の主張がいかに間違っているか指摘され)
「これって議論じゃないですか。これって議論でしょ。非武装中立でも良い面と悪い部分があるんですけど、今一斉に悪い部分を言ってるから、これ会話にならないから駄目です」

なんて酷い詭弁…。オルテガ先生はこう言います。


目が見えず耳が聞こえないにもかかわらず、かれらが口をだし、『意見』を押し付けないような社会生活上の問題は、一つもない。(p.84)
大衆的人間は、議論をすれば、途方に暮れてしまうだろうから、かれの外にあるあの最高の権威を尊重する義務を本能的に嫌うのである。したがって、ヨーロッパの『新しい』事態は、『議論をやめる』ことである。(p.87)

非武装中立がいかに問題か、と指摘している意見に反論があるならその非武装中立の良い面を自ら主張すべきなのを、詭弁を弄して、自分より優れた意見に耳を閉ざして己の意見を押し付け、より優れた意見を否定する。そうして議論そのものを否定する。

ああ。もう絶望したくなります。



オルテガ先生はこう書きます。

なんらかの問題に直面して、頭のなかにうまいぐあいに存在する考えで満足する者は、知的な面での大衆である。それに反して、まえもって努力して得られたのではなく、ただ頭のなかにあるものを軽んじ、かれの上にあるものだけを自分にふさわしいと受け入れ、それに達するために新たに背伸びをする人は、すぐれた人である。(p.79)

簡単にいえば、自分の頭に湧いてきた考えを重視せずより優れた意見に耳を傾け、そこに至るように謙虚に努力すべし、ということです。この漫才師にはその様子は一切伺えませんね。

僕自身も、現代人の一人として、こういった大衆的なものの呪縛から逃れられません。僕も明確にオルテガが批判した大衆人の一人です。しかし、それでも、こんな知的に不誠実な有様よりはいくらかマシであるとは自負します。

彼のような人物を他山の石とし、大衆的なものへの自らを律するための悪い見本とするべきだと、まさに凡庸さの戒めとして省みるべき事例だと思います。

2017年12月27日水曜日

筒井康隆「敵」

※ネタバレあり書評です。






筒井康隆は直木賞を受賞していません。他の文学賞はいくつも受賞しているのですが、あれほどの大家で、もしかしたら最後の「文豪」かもしれない人なのに、直木賞はありません。

SF作家としてデビューし、直木賞の選考自体には何度もノミネートされたそうなのですが、全て落選。その理由も(今の感覚では理解できないと思うのですが)「SFだったから」だそうです。当時のSF作品というのは、文学としては格が劣る「女子供の読むもの」といった感覚だったそうです。今で言えばラノベ的な立ち位置だったのかも。

そんな筒井先生、その恨みをまさに「文学的」に昇華し、「大いなる助走」という作品を書き上げます。その内容がとんでもなくて笑ってしまうのですが、とある作家が直廾賞という文学賞にノミネートされ、受賞するために選考委員の作家達へひたすら屈辱的な仕打ちに耐えながら根回しを奔走するも、あえなく落選し、その恨みから選考委員達を虐殺して回る、というぶっ飛んだ作品でした。

それ以降文学理論を用いてそこらの批評家を斬り捨てながら、「文学部唯野教授」「虚構船団」「虚人たち」「残像に口紅を」等々を書き上げるに至ったそうです。どれも一癖ある作品で、個人的には全て面白かったです。ただしオススメはしません。いつかこのあたりも書評させてもらいたいと思います。



「敵」は1998年出版で、筒井作品としては若干地味であまり話題にならないのですが、個人的にとても好きな作品です。出版社の自主規制に抗議した断筆宣言からの復帰後最初の長編でした。当時筒井康隆60歳代中盤で、かつて「大いなる助走」作中で殺して回った作家たちのような立場になった頃に書かれた作品といえるものです。



●「敵」

主人公渡辺儀助は定年退職した75歳の大学教授で、基本的には作品全体として彼のその日常が淡々と描かれています。地の文が独特で、作中に読点は一切なく、儀助の思考のモノローグと、日々の生き様が描かれます。

彼は聡明な元大学教授として己を律しながら妻に先立たれた老後の日々を一人暮らしています。虚飾を排した「銀齢の果て」(誤字じゃないです)に、気高く生きて誇り高く死のとうする。緻密に描かれるそんな彼の日常に非常に惹かれます。妙な見栄を張った最後を迎えようと望む事すら、ある種の儀助自身の等身大な諧謔なんだろうな、と思います。

特徴的なのが、擬音や慣用語に妙な当て字がされており、最初は「ポマードを蔑たり(べたり)」だとか「匂いを粉粉(ぷんぷん)」といったように、上手く意味と音が当てられた使われ方をしています。そして中盤には笑い声が「悲悲悲悲(ひひひひ)」となり、最後には雨音が「使徒使徒」「死都死都」「歩足り(ぽたり)」と、儀助の心象風景が表れます。


「敵」とは儀助の半ば自覚、半ば無自覚のなかで、彼の「耄碌」として迫っています。彼はある時亡き妻を偲びながら自らの作った妄想の妻と言葉を交わします。

耄碌に近づく過程と自覚しているので最初のうち独言を発することに躊躇いはあったが次第に幻想の妻との対話の快楽を知り自分にそれのみは許して野芽り込んだ。「帰ってきてくれないかなあ。また、お前さんとずっと一緒にいたいんだよ」「無理だわよ」信子が笑う。

廊下を歩きながら低声で「おい。信子」と呼びかけてみたりする。何度か自然に呼びかけているうちにいつかは何気なく衣裳部屋から「何」と言って出てきそうに思うからだ

覚醒と耄碌のはざまで、亡くした妻への愛情ばかりが深まってゆく儀助は以前書いた100万回生きたねこの記事の主人公猫君と白猫の関係を思わせます。ただし儀助は主人公猫君とは違い非本来的に生きていたわけではなく、むしろハイデガー的本来性に近い生き方をしています。(ちなみに作中でもハイデガーは引用され、筒井康隆自身もハイデガーにかなり影響を受けています。)

そうして日々耄碌し続ける自分を実感しながら、
身辺の日用品をすべて綺麗に使い切り銀行預金がみごとになくなり冷蔵庫が空になった時が死ぬときだがその死にかたが重要だ。儀助は安楽に死ぬことができて死後に汚物や血を残さず人にさほど迷惑をかけぬ美しい死にかたがしたいのだ。
として自決するための手段を定めます(詳細は割愛)。 その上で、
(もし死ねなければ)その先にはと言えば二度と面倒な手続きを繰返して死のうという気は起こらず呑便だらりと九十歳百歳まで老醜を晒し他人にさんざ迷惑をけけてから死ぬという儀助の最も嫌いな最後が待っている。

 として、自裁の為の周到な準備と手段を整えその日まで日常を過ごします。(「呑便だらり」も見事で、痴呆の進行を意味した当て字ですね。)

しかしそんな儀助に対し残酷にも「敵」は襲いかかり、儀助は耄碌の度合いを増していきます。そこで描かれるものは、一体どこからどこまでが彼の妄想で、一体何が現実であったのか。

ハイデガー的に自らの死と向かい合う聡明な老人であったはずの儀助と、彼の頭脳を蝕む残酷な「敵」。この作品を初めて読んだのは高校生の頃でしたが、ガキに理解も実感もするべくもないハイデガー的本来性が、今思えばこの作品を通じていくらか自分の中に埋め込まれた作品であったと思います。

これ以降、何か物事を考える時、この儀助的なものを念頭に置きながら考えるのが常となりました。僕にとっては非常に大きな作品です。

2017年11月10日金曜日

進撃の巨人 その2 壁の外の向こう側

※進撃の巨人のネタバレが多数含まれます。全話既読である事前提に進めますので閲覧注意












前回の記事の続きとして、進撃の巨人について書きたいと思います。言いたいことは殆どそっちで書いてしまっているので、是非そちらをご覧の上読んで頂ければ幸いです。

本当に面白く、毎号楽しみにしてはいるのですが、連載開始当初から主人公エレンの言動で、一つだけどうしても引っかかるものがありました。


第1巻 3話
エレン「俺には夢がある…
巨人を駆逐して この狭い壁内の世界を出たら…
外の世界を探検するんだ」

第4巻 14話


序盤はこの「壁の向こうには自由があり、追い求めている世界が広がっている」といった事がエレンのその信念の一つとして描かれています。巨人を駆逐さえすれば、閉塞した壁の中から飛び出し、もっと自由な世界へ歩み出せるんだ、とエレンは夢を見ていました。

一気に話数を飛ばしますが、紆余曲折を経て、エレン達は壁の中で「家畜の安寧、虚偽の繁栄」を貪っていた王族派を倒し、さらに壁の外の巨人達も駆逐しました。


第22巻 90話
巨人を駆逐し、エレン達は念願の「海」を見る


進撃の巨人という作品自体の ”オチ” に、そういった巨人を駆逐し壁の外の、「商人が一生かけても取り尽くせない塩の湖」だとか「炎の水や氷の大地や砂の雪原」が広がる世界へ出ていくんだ、という夢物語なファンタジーとして終わるんじゃないか、という事だけが作品の序盤から読んでいてずっと気がかりでした。

しかし前回書いたように、壁の外の世界にはさらなる絶望がひろがっているのみでした。巨人のような分かりやすい敵だけではなく、その外にはさらに大きな「世界」が敵として、エレン達の生存を脅かしているという現実に直面します。エレン達が戦わなければならないのは、そういった世界そのもの、あるいは歴史や文明といったものでした。


第22巻 90話

エレン「壁の向こうには…海があって 
海の向こうには自由がある
ずっとそう信じてた…
…でも違った 海の向こうにいるのは敵だ 
何もかも親父の記憶で見たものと 同じなんだ…
…なぁ? 向こうにいる敵… 全部殺せば 
…オレ達 自由になれるのか?」

このシーンでもって、進撃の巨人は間違いなく歴史にのこる名作になったと思います。

※余談ですが、エレンは「全部殺せば自由になれるのか」と、皆殺し宣言のように聞こえるような発言をしてはいますが、それを本当に目指しているわけではないと解釈すべきだと思います。リヴァイが言う「不足を確認して現状を嘆くのは大事な儀式だ」というものだと思います。

壁の向こう、巨人を駆逐した先、エレンが夢にまで見た自由の世界。しかしそこには自分達を滅ぼそうとしてくるさらに強大な敵がいるだけ、という現実にエレンは打ちひしがれます。壁の中に存在する敵を倒し、壁の外の敵を駆逐したら、その海の向こうにはさらなる敵がいる。僕らの現実そのものです。

そして、しばしば陥りがちな思考ですが、目の前のわかりやすい敵対する存在に世界の悪性の全てを投影し、それさえ無ければ自分(あるいは自分達)はもっと自由に生きられるのに、もっと活躍できるのに、もっと人生を謳歌できるのに、と思いがちです。しかしこの世の中にそんな分かりやすい「悪」など存在しません。

それどころか、時には敵と交渉したり、取引したり、手を結んだり、共闘したり、あるいは同盟さえ結ぶことすらあります。進撃の巨人の今後は恐らくそんな物語になるのではないでしょうか。

エレン達がその絶望的な世界と戦うように、現実の僕らもまたそうあるべきなんだろう、そう強く感じる作品です。

2017年10月30日月曜日

維新と社民の共依存

「右派」な維新と「左派」な社民(元社民含む)の国会議員たち。彼らは左右正反対なようで、その実は全く同質な非常にたちの悪い政治家であると確信しています。今回はそれについて書きます。

今回は予め申し上げておきますが、コメントを頂いても対応しないか、あるいは削除等の対応をする事があります。以前からこのブログ以外での某所等々あちこちで維新批判した事がありましたが、その際しばしば維新信者と思しき人物から、熱烈なラブレターを頂くことがありました。何が言いたいのか全く理解できないが維新批判をする僕を許せないという思いだけは熱烈に綴られた熱い熱いラブレターです。僕もできるだけ誠実で在りたいと思う人間ですが、対応しきれる限度がありますので。勿論そういうの以外のコメントは歓迎です。まぁ場末のアクセスの少ないブログなので杞憂だとは思いますが。





●足立康史の嘘


維新の会の衆議院議員の足立康史という人物が、選挙前の公約として
https://twitter.com/haradaryo_net/status/917737285273108480
「小選挙区で落選したら比例復活せずに、政治家として引退する」と、公開討論会で明言しました。「退路を断って戦うので、是非自分に投票してください。」という趣旨の主張になります。そして投票結果は
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/kaihyou/ya27.html#k009
見事選挙区落選、比例復活です。

そして開票の翌日に足立康史は
https://twitter.com/adachiyasushi/status/922262251729334273
と、即座に前言を翻し、全く意味が分からない理屈でもって比例復活して国会議員になると宣言しました。

端的に言って嘘をついて有権者を騙したわけです。常識のある人なら、こんな嘘が許されるわけがないのは議論するまでもなく理解いただけるでしょう。残念ながらその常識がない人が多いのか、足立の嘘を許し国会議員になる事を歓迎する人が多く、心の底からおぞましくて呆れ返ってしまいました。(余談ですが、足立が嘘をついて議員になるであろう事はわかりきってはいましたけどね。維新なんてこの程度の「輩(やから)」の愚劣な集団でしょう。)




●目的は手段を正当化するのか


その足立を許し評価する人々の主張を見ると、最も多かったのが「辻元清美のような奴と戦うために足立康史は必要なのだ」といった類のものでした。足立は辻元を舌鋒鋭く批判していたらしいです。僕は興味ないので知りませんが。

確かに僕も僭越ながら、辻元清美のことは蛇蝎の如く嫌わせてもらってます。いや、蛇やサソリのほうが可愛いぐらいですね。可能なら溶鉱炉かなんかに放り込みたいぐらい憎悪してます。鉄にでも溶かして鉄筋にしてコンクリートに埋めてダムとか堤防とかのインフラに使ったほうがこの国の役に立つだろうな、と思うぐらい嫌いです。しかしその辻元を追放する為に犯罪を犯そうと思わないのと同様に、国会議員の嘘つきを許容しようとも思いません。ましてや、そいつらもまた共犯関係にあるのではないのか、と憶測したくなるような奴らならなおのこと。

足立あるいは維新と、辻元あるいは社民系は、互いに批判しながらその実相手の存在に自分の存在基盤を依拠する、「共依存」という現象であると思います。




●共依存とは


心理学でもしばしば使われることもある、元々は「アル中の旦那を世話する奥さん」といった夫婦にある種独特な関係性がある事を指した言葉です。アル中で一人では生活できなく世話してくれる奥さんが必要な旦那と、そんな介護する自分を旦那に必要とされる奥さん、というように互いが互いの存在の必要性を依存しあう事を指します。ある種究極の愛と呼んでもいいかも知れないですが、ただその際に問題なのは、場合によってはアル中そのものを改善しようという意思がなくなってしまう事です。それどころか、旦那はより積極的に自堕落に酒に浸り、奥さんは尚更にそんな旦那を甲斐甲斐しく世話をするようになってしまう事です。

アル中のような悪性のものを介した共依存というのは、それを更に深化させるスパイラルを持つ、非常に危険な依存関係なのです。もちろんアル中といった依存症からの脱却に家族の力が必要だったりするのも事実なのですが、場合によってはそのように事態を悪化させるケースもある、という事です。

これを足立と辻元の関係でみていくと、足立にとって辻元は批判しているだけで支持が固められる非常にお手軽な手段であり、しかもその支持層は、政治家にとって最もついてはならない一つである当選のためについた嘘すら許容してくれるという、政治家であり続ける為にこの上なく貴重な存在である事。辻元にとって足立(あるいは維新)は、左派が常にこの日本の選挙で一定程度の確実な得票を得ている事から、「反右」としての存在意義を強調する為に無くてはならない存在でしょう。まぁ辻元の気持ち悪さなんて述べるまでもないですよね。今更コイツに関して何か書こうとも思わないです。


つまり、足立のhttps://twitter.com/adachiyasushi/status/923602407145332736
こんな発言に見られるように、辻元がいなくなったら国会でプレゼンスを発揮できない足立、そんな足立(維新)への批判票が集まる辻元。足立は辻元を批判することで国会議員になっているし、辻元は足立のような存在がいるお陰で、議席を確保できているわけです。これは正に共依存。


その傍証となるものを示しましょう。http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/kaihyou/ya27.html#k010
これは辻元清美の選挙区大阪10区の今回の選挙結果です。まさかの辻元が選挙区トップ当選。こいつ秘書給与詐取の前科持ちですよ。こんなクソ野郎がトップ当選とかあり得ないんですが、この立候補者3名をよく見るとその原因がわかります。

トップ当選が辻元、2位の比例復活が自民党、3位落選したのが維新の立候補者です。もし本当に維新が辻元清美を国会から追い出したいのであれば、自民党と選挙協力をし、ここに立候補者を立てなければ、維新に入っていた票はまず間違いなく自民党へほぼ全て入ったでしょう。つまり自民が選挙区でトップ当選となり辻元は間違いなく落選していたわけです。但し、仮に維新票を全て自民に足した場合、辻元の惜敗率は大体75%で、近畿ブロックの立憲民主は今回惜敗率50%程度で比例当選しているので、恐らく比例での復活当選にはなったとは思います。しかし、政治家にとって選挙区落選というのはものすごく非常に大きな意味を持ちます。これを維新が理解していないわけがありません。

本当にこの国の為をおもうなら、ここは自民と選挙協力をし(水面下での内緒の交渉で構わない)、辻元の発言権を削ぐためにも、絶対に維新の候補者を立ててはならない選挙区だったはずです。それをこの様に対立候補を立て、結果として辻元を当選させるなど、辻元を応援しているのと全く同じであると言わざるを得ません。



足立と辻元、あるいは維新と社民系は、非常に根深い共依存であり、どちらもこの国に仇成す存在である、と僕は結論付けます。

2017年9月26日火曜日

監督降板と希望の党


けものフレンズというアニメが、続編を期待される中、その監督が版元(角川)からの通達によるものだと明言したうえで2期監督から降板になった事を公表しました。完全に死んだ作品だと思われていたのを、ほぼ一人で再興し、一つの大きな流行にまで持ち上げた功労者であるにもかかわらず、だそうです。

かなりの炎上騒動になっているようです。版元の行儀の悪さについては今更言うまでもない社風の会社だし、その批判は当然なのでココでは今回触れません。

ただ、この様子を見ていて、僕としては違和感を禁じえません。一体この騒動の何に違和感があるのか。いくらか考えて仮説を得られたので少し書いていきたいと思います。




結論としては…

騒いでる方々、作品そのもの自体には価値を見出していないのでは? あるいは、ある種のフロックなブームに便乗しているに過ぎない事を半ば無意識下で自覚してやいませんか?

署名運動などがあるように、どうにも「けものフレンズ」と「監督」とを過剰に結びつけているように思います。監督を作品に縛り付けよとしている、と表現したほうが適切でしょうか。勿論監督のその功績は多大なものなのは間違いないでしょう。彼なしではありえなかった、そんな才能の持ち主なのでしょう。

であるならば、その有能さの実績を持つ作家として増した権限や発言力により、次作は間違いなく予算やスケジュール等の制限を緩やかに、より自由に作品が作れるはず。なのに騒いでるファン達にどうして「次作を楽しみにする」という人がこうも少ないのか。勿論そうではない方もいるんでしょうが、少なくとも騒いでる人たち多数には見られない。

本当にその監督の作品が好きならば、今回の一件は、一方で残念であったとしても、もう一方で次の作品を楽しみにするものでしょう。ファンであるならば。それがどうにも、こんな騒動になりつつあるのは、彼ら自身、けものフレンズという作品そのもの自身に対して根本的な興味を持っているわけではないのではないか。

これは彼らにとって「けものフレンズブーム」それ自身がある種のポジティブな「炎上」であり、その作家の作品そのものに本質的な興味があるわけではなく、「"独特な間合いの空気と意外に身が詰まった王道なシナリオのギャップを楽しむ作品"という一連のムーブメント」それ自体が目的化してはいないか。そしてその「ムーブメント」に放り込まれた次のイベントとして、「監督の更迭劇」という第二幕を騒いでるのではないのか。

更に、もしかしたら監督の次作に対しては今回ほどそのブームを楽しめないのではないか、という「自分達のこのムーブメントが実は空虚なものであると実感させられる事に対する恐怖」から、この一連の騒動が起きているのではないか。




この現象、小池百合子の一連の騒動にその類形を見ることが出来ると思います。

1.舛添バッシングにより自分達の選んだ知事を引きずり下ろして
2.小池百合子を選挙によって担ぎ上げ
3.小池はその暗愚さを露呈しているにもかかわらず
4.未だに高支持率を維持している

つまり、舛添を下ろしたらもっと酷いのが出てきた状況で、自分達の選択が誤りであったことを認めたくがないが為に未だに小池が高支持を維持しているように、けものフレンズブームが空虚なものであったと認めたくないというマクロな群集心理による騒動ではないのか。

そんな解釈ができる気がします。



ちなみに僕自身のこの作品の感想を一言で述べるなら、深夜ではなく夕方頃にNHKなんかで放送されるべき良い作品だな、と思います。




※念のため付け加えますが、作家潰しで有名な某少年誌編集部のように、この件によって監督の能力と才能がつぶされる事があってはいけないと思うし、そうなりそうな降板そのものにはかなり批判的に思ってます。ただ同時に、角川には角川の商売上の都合もあるだろうな、とは思います。まぁこのあたりは部外者にはうかがい知れない事ですけども。