覚えているのは20年程前、ネットなんかは無く、テレビが言論の主戦場で、朝まで生テレビなんて討論番組が世相の最先端、っていう時代。この番組での議論の趨勢がメディア全体の論調にも結構影響を与えていたなんて頃。
その頃の僕は10代半ば、誰しもあるように僕自身も社会と自分との関わり方の悩みを抱えていて、「まがいなりにもそれなりの識者達がいて、自分よりもずっと大人なこの人達の議論から何か学べるんじゃなかろうか」って感じで何も知らずにボンヤリとあの番組を見ていました。
当時の自分に議論の中身そのものを過不足なく理解はできたとは言えないけども、それでも彼らがほとんど空虚な、世相という薄甘い共通認識をレトリックの泥で塗り固めた凶器で相手を言い負かそうとする奴らばかりである事だけは理解できました。
そんな中で西部先生だけは、別の言語なのかと思うほど異なる言葉を話されていました。クソガキだった僕にもひと目で分かる、いい意味で他の言論人と全く異質なその存在。正直に白状すると当時の自分にその意味を全て理解できたとはとても言えないけども、それでも「この人だけは違う」と確信した記憶があります。
例え他の誰も主張している者がいなくても、例え他の誰にも理解されなくとも、自分の信じる言葉を誠実に話されるその姿。道に迷ってた時に西部邁の言葉を聞けたから、今の自分が多少なりとも物事が見えて、多少なりとも耳が聞こえるようになったんだと思います。
…いつかもしかしたら、こんな感じで西部先生に直接お礼をお伝えする機会があったらな、なんて考えていたのですが、残念ながらその機会は永久に失われてしまいました。本当に残念です。
夏目漱石の「こころ」の一節を思い出します。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。
「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
明治天皇が崩御され、乃木将軍も殉死された時に「明治」的なものが永久に去ってしまったと、「こころ」の「先生(あるいは漱石自身)」が感じた様に、こうして僕らからも今日、西部先生と一緒に戦前から戦後へと連なるマトリクスが去っていったような気がします。
知れば知るほど尊敬する先生でした。西部邁先生のご冥福をお祈りします。